創作小説公開場所:concerto

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[執筆状況](2023年12月)

次回更新*「暇を持て余す妖精たちの」第5話…2024年上旬予定。

110話までの内容で書籍作成予定。編集作業中。(2023年5月~)

38.Don't memorize,don't forget.(1)

 どこに目を向けても、花が咲いている。棚の上にはツバキが。机の上にはホワイトリリーが。ベッド横のサイドボードにはコミナライトが。天井まで伸びた蔓の先にはアサガオが。窓辺にはリィムローズが。その向こう側にも更に多くの、数えきれないほどの花々が文字通り咲き乱れている。

 物心ついたときから私の部屋はそういう状態だった。言葉を覚え始めた頃には“力”の行使が息を吸うのと同じようにできるようになり、ままごと遊びの感覚で植物の生長を狂わせて遊んだ。

 両親も、世話役の女性たちも、誰も止めない。口を出すのは一つだけ。

「あなたがいなければ、この家のあらゆる草木が枯れてしまいます。ですから、この家を出てはなりませんよ。お父上との約束です」

 この唯一の不自由を受け入れていれば、他の自由はどんなことでも手に入った。美しい庭園のことも気に入っていたし、外へ出ない限りはどんな我儘でも許される生活はあまりに快適で、ささやかな好奇心と羨望の為だけにそれを捨てる気にはならなかった。

 それに、パパの言いつけなのだからこれは守るべき事実。正しいこと。そう信じて疑いもしなかった。両親のことは好きだったから。

 父は銀フレームの細い眼鏡がよく似合う、スギの木みたいな人。母は華奢で色白な、スイセンの花みたいな人。仕事の用事で家を空けることや顔を合わせない日は多かったけれど、私と話す二人はいつも優しい目をしていた。怒られたことなどなかった。

 父は仕事のことを話さなかったから、普段何をしていたのかはよく知らない。家の爵位すらも知らずに過ごしていた。

 ただ、去年スズライト家で開催されたパーティの日だけは、「会場内に入るまで何も見てはいけない」という条件付きで外出を許可されたことがあった。その話をすると、双子の御令嬢の妹の方があからさまに顔をしかめたのを覚えている。姉の方はそんな妹を慌てて諌めていたが。

 私に似て、外の世界から遠ざけられていた二人。彼女たちは今どうしているだろう?

 

 ぶるり、という体の震えに、眠っていた私は目を開けた。

 横になったまま、枕元の時計に目を見やる。午前二時。息が白い。上体を起こし、寝惚けた目をこする。

 本格的な冬ももう目前という頃、気温が急に下がった日の夜だったが、震えの原因は寒さだけではなかった。妙な夢を見たのか? 獰猛な肉食獣に睨まれているかのように、悪寒が止まらない。部屋は草花で守られているけれど、このまま眠りにつくのが怖い。今すぐにこの場を離れたいほど。こんなことは初めての感覚だった。

 蔦の絡みついた天蓋を手で退けてベッドから降り、蓬色のスリッパに足を通す。コミナライトの淡い明かりを頼りにガウンを取って羽織った。その鉢を胸元に抱え、当てもなく廊下へと出る。

 まだ明かりが足りなかったので、コミナライトの生長を操って鉢から溢れる程に肥大化させた。壺状の花弁はその重みでゆらりと頭をもたげ、根本まで覆い隠す。大きさと強さを増した橙色の光が壁を濡らした。

 歩いていくと、廊下の向こうから物音がくぐもって聞こえてきた。誰かが喋っている。その方向からは、強大な力と怪しげな気配もにじんでいた。私たちが日頃用いている魔力とはまるで違う禍々しさ。

 そんなものがどうして家の中から?

 気付いたからには、追い払わなければ。今日はパパもママも家にいる。明日は忙しくなるのだと、夕食を食べながら話していた。眠っている二人に近づけさせるわけにはいかない。

 襟元にかかった髪を後ろへ払い、氷のような植木鉢をきつく抱き締めた。

 声がした方へ進んでいく。闇の中から何かが飛び出してきそうで少し怖いけれど、家族を守りたい意思の方が勝っていた。

「――――素晴らしい――――」

「……え?」

 地下室へ続く階段の前まで来ると、より鮮明に声が届いた。そのたったの一言が、直前に抱いた覚悟を一瞬で鈍らせる。それは確かに聞き覚えがあるはずの声で、最も耳慣れたはずの声なのに、聞いたことのない声だった。

 気配も、震えも、強くなる。それなのに、足は止まらない。

 真っ黒の絵の具で塗り潰された地下の空間へ吸い込まれるように、長い階段を下っていく。

「その姿――――とはまるで違う――――」

 石造りの壁に片手を添えて一段ずつ、ひたひたと下りる。

 もはやコミナライトの光は全く意味を成していない。それでも抱きかかえ続けていく。他にすがりつけるものが何もなかったから。

 地下室には重い鉄の扉と厳重な鍵がかかっていて、普段は父以外の誰も入ることを許されない。それが開け放たれていた。中は古くて危ないから閉め切っているのだと聞かされていたけど――。

 前は見えないが、空間があるということだけを空気の動きから感じる。その空気すらどこか息苦しい。何も見えない。確かに目を開けているのに、閉じているのと変わらない視界。

「――――誰だ」

 石のような険しい低音が飛んできた。それに呼応して、暗闇の奥深くで血のように燃え盛った双眸がギラリと光る。

 その瞬間、心臓を掴み上げられて、鋭利な爪を突き立てられて、唾液の滴る太い牙で噛み砕かれんとしているような激しい恐れを抱いた。手から花瓶が滑り落ち、陶器の割れるけたたましい音が鳴り響く。辺りに湿った土と破片が飛び散って、横たわった花から橙の薄明かりが消えた。

「……な、何をしてるの、パパ」

 引きつった喉から無理矢理に、努めて明るく搾り出す。喉だけではなく、全身がきつく強張っている。もうこれ以上、足は動かない。

 規則的に壁に並んでいる蝋燭に、青紫の炎がひとりでに点き始めた。こちらに背を向け天井を見上げていた巨躯の男が振り返る。

「ああ、起こしてしまったか」

 一転して、夢のように甘く優しい父の声色。それがかえって寒気を掻き立てる。父は見たこともない黒一色のローブに全身を包んでいて、片手にオイルランプを提げていた。顔だけがぼんやりと浮かび上がっていて、その口元は綻んでいる。

「せっかく来たのだから、お前も見ていくといい」

 父は再び振り返ると、ゆっくりとランプを動かして部屋の奥を示した。

 床の上にあるものが次々と、照らされては消えていく。ぼさぼさの白髪、投げ出された細い腕、煤けたエプロンドレス。石膏で描かれた緻密な魔方陣、解読不能な謎の文字列。その中央に、まるで祭壇のような石の長机と黒い塊。父はそれらを意に介さず、ランプを更に上へ掲げていく。

 奥には、おぞましい化け物がいた。

 床から十メートル以上はある天井にも届くほど巨大で、竜のような翼を広げ、筋張った手足を宙にぶらつかせている。三本の爪は異様に尖っていて長い。人骨に黒紫の薄皮を張り付けたような頭には一対の曲がった角と長い耳が生えている。にやりと口元を歪ませて、笑った。

「これまでは低俗なものを呼び寄せるので精一杯だったのだ。それが今日ようやく、これを喚び出すに至った。素晴らしいと思わないか? これで我が家は、ついに――」

 父の声は小さく震えていた。ローブの下から腕を伸ばし、亡骸の頬を撫でるように、テーブルの上に寝かせられている物体に触れる。ごとん、とその塊の「頭部」が傾いて、こちらを向く。

 どす黒く変色し、苦悶に口を大きく歪ませて白目を剥いたまま固まっているそれは、紛れもなく母の顔をしていた。

 身じろぎをして後ずさる。スリッパがずれて、踵が花瓶の破片を踏みつける。鈍い痛みが走った。

「だが、まだ足りない。やはりこんな紛い物ではなく、本物でなければ」

 悪魔が吐息を漏らし、私を捉える。

「お前を使わなければ真の力は得られない」

 瞬間、皮膚がさっと粟立った。

 ここにいたら、私はママと同じことをされる。

 そう直感してからのことは、あまり覚えていない。粉々になった花瓶の残骸を蹴飛ばし、しおれた花を踏み潰し、階段を駆け上がって、ただただ必死で逃げて、逃げて、気付いたときには寂れた夜道に出ていた。

 街灯も月明かりもない。辺りの様子も、自分の体の輪郭も確認できない。でも、あの化け物が背後に迫っているかもしれないという恐怖が拭えず、方向も何もわからないままに闇の中を走り続ける。

 途中、不意にがくんと膝が落ちて、ろくに受け身も取れず前方へ倒れ込んだ。右の頬と腕が焼けたように痛む。土は酷く固くて、壁のようだ。

 起き上がれない。

 指先すらも全く動かせない。自分の口から漏れている、不規則で細い呼吸の音が頭に絡みつき離れない。視界が、頭が、ぐらぐらする。

 凍りつきそうだ。

 暗闇の中、瞼が鉛のように重く沈む。