48.いつかまた逢う日を
「えー、もう帰っちゃうの? おやつと夜も食べていけばいいのに。泊まったっていいのよ?」
「えっ、でも、急に来てそれは悪いよ……」
「ネビュラの言うことはお気になさらず……。ですが、ルミナさんさえよければ、是非またお越しくださいね」
帰りには姉妹二人揃って玄関まで見送りに来てくれました。リアスさんも一緒です。行きと違って他の使用人の方々が見当たりませんでしたが、たまたま別の場所でお仕事をしていたのでしょう。
彼女たちのお父さんと顔を合わせることはありませんでした。外せない用事がまだ残っていたとのことで、リアスさんは申し訳なさそうにしていましたけれど、私はほっとしたものでした。後に話してくれたのですが、キラも内心同じ気持ちだったそうです。
「ねえルミナ、これ持っていきなよ」
別れ際、ネビュラがおもむろに差し出してきた群青色の紙袋には、書庫で読んでもらった冊子とクリアファイルに収められたルーズリーフ一枚が入っていました。取り出して見てみると、紙にはその詩の翻訳が綺麗に手書きされています。
「これって、さっきの……もしかしてネビュラが訳してくれたの?」
「あんたたちがメアリーと話してる時にね。せっかくだから貸したげる」
「凄い、ありがとう! だけど本当にいいの? この本、大切な物なんじゃない?」
「いや別に? 破いたりなくしたりしなけりゃ何でもいいわよ。どうせ普段誰も読んでないし。いつでもいいから、また来たときに返して。メモはあげる」
ネビュラはそう簡単に言うけれどやはり恐れ多くて、折ったりしないよう大事に抱え込みます。……話の途中、彼女の後ろでリアスさんが苦笑いしているように見えましたし。
「それとあんたの『体質』なんだけど、城の連中には特に知られない方がいいわ。外ではなるべく黙ってるようにね」
「え? 何で?」
「捕まっちゃうから」
「!?」
びっくりして紙袋をぐしゃりと潰しそうになりました。キラも目を見張ります。
脅さないの、とメアリーがネビュラを諫め、ネビュラはそれを軽くいなしますが、彼女の目は笑っていませんでした。
「ま、一応? 多分? 国家機密に近いことだし、アタシも迂闊なことは言えないんだけど。要は、半霊族なのがお国にバレると利用されて碌なことにならないって話よ。気を付けなさい」
「う、うんっ」
冗談で言っているようではありません。ピシリと背筋を伸ばして身を引き締めます。私は機会があればお城へ観光に行きたかったのですが、この時に諦めることにしたのでした。
話を聞いたキラは、訝しげな視線をネビュラへ向けています。
「……なあ、ずっと気になってたんだが」
「何よ?」
「さっきからやけに半霊族の特徴や事例について詳しいな? そういう教育を受けてるんだと思ってたが、見ただけで人の魔力を見抜けるなんてのは説明がつかない。まさかお前も――」
「ありゃ、バレちゃった」
キラの言葉を最後まで聞かず、ネビュラはケロリと言いました。
「あ、あっさり認めたな」
「気付いてほしかったのですよね、ネビュラ様」
「フフ、さっすがリアス」
「えっ? ネビュラもその、半霊族、なの?」
「肝心のルミナには伝わらなかったみたいだけど」
肩をすくめて笑うネビュラは、イタズラっ子のように楽しそうでした。ズイッとこちらに距離を詰めると、私の空いている手を取って屈託なく笑います。艶やかな黒髪が視界に広がり、ふわりと紅茶の香りがしました。
「そ、アタシもメアリーも半霊族。ナイショね。友達が増えたのと仲間に会えたのが嬉しくって、喋りすぎちゃった」
キラキラと光る瞳。柔らかな手から、ほんのりと熱が伝わってきます。その隣ではメアリーもそっくりに微笑んでいて。
「今日は来てくれてありがと、ルミナ! 会えて良かったわ! ついでにキラも、ルミナ連れてきたことには感謝してあげる」
「ついでかよ」
「絶対また会いに来てよね! 約束よ!」
「う、うん!」
真っ直ぐなその笑顔と言葉が、とても嬉しかったのでした。面と向かって、目を見て、「会えて良かった」と言ってもらえることが、一生のうちにどれだけあるでしょうか。それはなんて幸せなことでしょうか。
「キラさんも、ありがとうございました。……また、手紙書きますね」
「ああ」
横ではキラとメアリーが短く言葉を交わします。もう二人とも目を背けることはなく、憑き物の落ちた顔をしていました。
いつの間にか先回りしていたリアスさんが、玄関の扉を開きます。その途端に、外から夏の熱気がぶわっとなだれ込んできました。青空が眩しく、注がれる白い日差しに自然と目が細くなります。
「それでは、また」
「またね!」
手を振り合って、私とキラはスズライト家の屋敷を後にしました。
少し西へ傾き始めた太陽の光に合わせて、妖精の森が大きな木陰を作っています。私たちはその中で涼みながら、学生寮までの道を歩きました。
屋敷にあった空調装置の冷気でひんやりしていた肌が、徐々にじっとりと汗ばんできます。
「はぁー、何だか色んなことがあったね。まだ夕方にもなってないのに、ちょっと疲れちゃった」
「そうだな……」
「メアリーに用があっただけなのにね」
「………」
「えっと……」
メアリー達と別れキラと二人になった途端に、あることが私の頭の中をぐるぐると回り出していました。スズライト家へ行って楽しかったことも良かったことも確かにあったけれど、その記憶を塗り替えるように、脳裏に貼りついて離れなくなっていました。
キラの口数も、いつも以上に少ない気がします。
思い切って口を開きました。
「キラ、その……、お兄さんのこと、聞いてもいい……?」
俯いて足を止めた私に、彼は少し離れたところから振り返ります。その目を見ることはできませんでした。
けれど、決して単なる興味本位や同情から尋ねたのではないつもりでした。私には以前から気にかかっていたことがあり、彼に聞かなければならないこともあったと思うのです。
「前の冬、ってことは、その時、みんなもいたの……?」
キラはその場に立ち止まったまま淡々と答えました。
「ああ……同じクラスだったエレナやシザー、レルズ、スティンヴ辺りには、何があったのか知られてる。あとは兄貴の同級生くらいだろうな。爺さんが手を回して余計な噂が立たないようにしたらしくて、あまり大事にはなってないが、それでも少しの間は……ごたついた。けど、あいつらももう忘れただろ」
「ううん、多分だけど……そんなことないと思うな。私なら忘れられないよ」
「……そうか」
歩き出そうとするキラを、慌てて小走りで追いかけます。
「あっ、待って。あの、あのね? 聞きたいのはそれだけじゃなくて、でも話したくなかったら無視していいし、違うなら全然いいんだけど……。えっと、お兄さんのことと、みんなで行ったあの日のホウキレースって関係あったり……する?」
追いついて隣に並ぶと、キラは再度立ち止まって溜息と共に呟くように言いました。
「やっぱりバレてたんだな……あの時」
そうして頭上の木々を見上げ、その時の光景を思い出すように遠い目をします。
「そうだ。あの選手の中に、兄貴そっくりな奴がいた。一位だった奴だ――って言ってわかるか?」
「うん……」
その選手のことは、覚えていました。彼の顔を見て以来、一時期キラだけでなくネフィリーの様子も平静ではなかったからです。客席から遠目に一回見ただけなので、だいぶぼやけた曖昧な記憶ではあったのですけれど。
「学校では普通にしてたはずなのに、ルミナにだけ見抜かれてるみたいなのが不思議だった。お前の、半霊族としての力のせいだったんだな」
「そう、だね。黒い渦が初めてはっきり見えたのは、あの時だったから」
「……あの後も、あいつはここの地区大会に出場してるんだ。オレは……あいつがソラ兄かどうか自分で必ず確かめる。それでもし、本当にソラ兄だったとしたら……オレは……」
キラの口調はまるで独り言のようでした。木の葉がそよそよと風に吹かれ、目元を淡い影が揺れています。見え隠れする空の青色に、眩しそうに目を細めました。
「兄貴は……箒で飛ぶのが好きで、上手だったんだ。オレは兄貴から箒の乗り方を教わった。ホウキレースも好きで、昔は何度か一緒に観に行ったことがある。……兄貴はあの選手と違って眼鏡をかけてなかったし、第一名前も違う。だけど」
彼は頬から顎へ垂れる汗をぐいと拭って、暗い地面の方へ目線を落とします。葉と土の混ざった濃い匂いが風に乗って舞いました。
「だけど本当にそっくりで……他人とは思えなかった」
キラがこんなに複雑そうな表情をする理由が、私にはよくわかりませんでした。
先程の口ぶりからして、キラはまだゼクスさんと会って話をしていないようです。ですが、大会に出ているのがわかっているのなら会いに行くことも難しくないはずでしょう。
どうして、すぐに声をかけなかったのでしょうか? どうして、確かめるのを躊躇うような素振りを見せるのでしょうか? キラはお兄さんに会いたくないのでしょうか?
森の奥のどこからか、数匹のセミの鳴き声がせわしなく聞こえてきます。
私も額の汗を指で拭いました。不意にキラがこちらを向きます。
「なあ。今のオレも、周りに黒いものが浮いて見えるのか?」
「ん? ううん……今は何も」
首を横に振ると、眉をひそめました。
「よくわからないな……。ネビュラの言う通り、お前の『能力』とやらは不安定だってことなのか?」
「不思議だね」
「……他人事じゃないんだぞ? オレのことより、自分の心配をしろよ」
そう言って、手の甲で軽く私をこづくような仕草でキラはいつも通り呆れました。
彼が私のことを案じてくれているのはわかっています。
けれど私は、人の心配をすることがそのまま自分のためになると思っていました。
この力は他者の苦しみを可視化させるもの。苦しんでいるのは、私ではなく目の前にいる人。それさえわかったのなら、この力についてもう十分知ることはできたようなもの。
それが自分を不幸にする想像など全く浮かばず、お屋敷の図書室を出る時から、キラは何をそんなに気にしているのだろうと思っていました。彼は優しいから、突然のことで心配性になっているのだろう、くらいに感じていたのでした。
改めて隣に並び、歩みを再開します。先程までのような気まずさはもうなかったけれど、何も知らなかった時のように話が弾むといったことはありませんでした。