57.My Heart(1)
* * *
他人と接するのが苦手だったのは、今に始まったことじゃない。昔から、目の前の人が何を思っているのかわからないのが怖かった。その言葉が本当だと信じていいのかわからないのが怖かった。
どうして聞こえるようになっちゃったんだろう。どうして私だけが事実を、「答え」を突きつけられたんだろう。
何もいいことはなかった。やっぱり口先の言葉なんて全部嘘で、信じちゃいけなかったんだ。信じた私の方が馬鹿で、間抜けで、愚図だった。
人は本音を隠して、嘘まみれの優しい言葉を塗りたくる。そうしないと人間関係が保てないから。相手の全てを心から認めることなんてできない。なのに、分かり合って好き合っているようなフリをして、相手のことも自分のことも騙している。そうしないと世の中は上手く回らないから。
なんて脆くて、下らなくて、恐ろしい。
「やった、ありがと! 今年もルベリーと同じクラスで超助かるー。じゃっ、代わりによろしくね」
(便利な子。何頼んでも絶対断らないよね。面倒ごと押し付けられてるだけって気付いてないんだろうな)
そんな風に思ってたんだね。でも、あなたの言う通りだ。友達の役に立てて嬉しい、としか私は思ってなかった。
聞きたくなかった。
「アッハッハ、お前すげー馬鹿だな! あだっ、あ、ゴメン」
(うわ、暗い女子。同じクラスだったような? 名前何だっけ?)
私にぶつかったことより、今話していた友達に謝った方がいいと思う。みんなに合わせて笑っているけど、それは作り笑い。本当は傷ついているから。レイジくんが自分で思っている程それは軽い言葉じゃない、誰だって嫌に決まっている。
聞きたくなかった。
「去年の問題? いいぞー、わかるまで何度でも聞くのは大事なことだ。どれ、ちょっと待ってな」
(二年にもなってこの程度の計算が解けないなんて。どうせ休み中は勉強もせず遊んでいたんだろうな。ああ、だるい。一度やったじゃないか、授業時間でもないのにまた教えないといけないのか)
教科書やノートを読み返してもわからなかったから聞きに来ました。出来の悪い生徒でごめんなさい。先生が優しかったのは、それが仕事だからというだけだったんですね。
聞きたくなかった。
全部、全部、聞きたくなかった!
これが「答え」なら、知らないままでいた方がずっとよかったのに。何も聞かなかったことにしてしまえばいい、なんて、いきなりそんな器用な真似ができるはずがない。
耳を塞いでみても、遮られるのは生身の声だけ。心の声は濁流のように押し寄せ続けて止められない。
だから耳ではなく心を塞いで、私は自分を守った。
あの人も、あの人も、怖い。他人が怖い。この先もずっとこれを聞き続けなければならない、と思うと胸が潰れてしまいそう。耐えきれなくなる前にあらゆる感情を殺せば、楽になれる気がした。
最初から絶望していればいい。初めから望まなければいい。
顔を髪で覆い隠し、硬い壁を作ったら、人はみるみるうちに私の傍から離れていった。感じ悪い、ルベリーは変わった、とかつての友達からも「陰口」を叩かれたけど、構わなかった。
それでいいんだ。
でも、ただ一人エレナさんだけは、何度も私の傍にやってきた。
「ルベリー、わたしとペアになりましょう?」
例えば授業で二人一組になるとき、決まってあぶれる私には毎回エレナさんが声をかけてくる。私がどんなに素っ気ない態度をとっても、必ず。
エレナさんの中にはあの昼休みの贖罪の気持ちもあったけど、心からの厚意であることには変わりなかった。それを、嬉しいと思ってしまう私が確かにいた。
壁にすぐヒビが入りぼろぼろと崩れて、差し込んできた光が闇を拭い去っていく。
他人は怖い。だけど独りは淋しい。
淋しいよ。
悲しいよ。
自覚しないようにと、自分自身で蓋をして閉じ込めた叫び。それに真っ先に気付いてくれたのはエレナさんだ。
あの人はいつも陽だまりの中にいて、自らも周囲を照らしている。眩しくて、羨ましい。だけどその真っ直ぐさは反感を買うことも多く、不安になることがある。
(一人で勝手なことしないでよ。こっちが悪者みたいになるじゃん)
不意にやってくる氷柱のような冷たい「声」に、時に自分のことのように、胸を突き刺された。
「……あのさ、なんでルベリーに構うの?」
「なんでって言われても……わたしがそうしたいからよ。ねえ、それよりも! 夏休み始まったらミリー達と一緒に遊びに行くんだけど、リーンもどうかしら?」
「え、あー……、あたしはクラブの合宿があるからごめん、パスで。終わった後なら行けるんだけどな」
「あら、残念。じゃあまた別の日に遊びましょう? 都合がついたら教えてちょうだいね。合宿、頑張って」
(ルベリーに声はかけたし、リーンにも来てほしかったけど、クラブじゃ仕方ないわ。秋の記録会で自己ベスト更新するんだって張り切ってたものね)
(エレナとミリーちゃんか……やめとこ。疲れそう)
周囲の目を盗んだ内緒話も、声に出さない言葉も、いつも私には全て聞こえる。気付いてしまう。二人のお互いへの感情にはズレがあって、いつ壊れてもおかしくないと思えた。
リーンさんの胸の内に渦巻いている仄暗い感情を、エレナさんは知らない。
――でも、ついさっき、私が余計なことを喋ったせいで、そうではなくなってしまった。
なのに、エレナさんがリーンさんへの思いを変えることはなくて。
『リーンはわたしの大事な友達だから。何を隠してたって、どう思われていたって、わたしはリーンが好きよ』
『嫌なことも悲しいことも沢山あるけど、それが全部じゃないもの。いいことや楽しいことだって、いっぱいあるんだから。それを忘れたくないわ』
どうしてエレナさんはこんなに強いんだろう。
どうしてそこまで信じ続けていられるんだろう。
心の声が聞こえていても、人はわからないことばかりだ。
私はまだ他人のことが怖い。みんなも私のことを良く思っていない。私も彼らも、容易く変われはしないはずだ。
だけど、エレナさんはやり直せると思っている。笑い合う未来を願い、期待している。
それは私一人では到底信じきれない夢物語なのに、エレナさんの「声」を聞いていると、不思議と本当にそうなるような気になる。
希望を捨てなくてもいいんだ、って、思える。
狭くて薄暗い、角の隅で。どんなに苦しくても、悲しいことが沢山あっても、それだけが世界の全てではないとエレナさんは笑顔で語った。
まるで夜明けに臨む太陽みたいだった。
階段の下の日陰から、這い出る。その階段を、二人並んで登っていく。
教室に戻るのはとても怖い。けど、戻らなきゃいけない。前に進んで、話をしなきゃ。みんなの心を覗いてしまうことを悪いと思うのなら、怖くてもつらくても、こちらも心を曝け出して向き合わなきゃいけない。それが私の責任だ。
それに、怖いのはエレナさんだって同じ。「ルベリーの前じゃなかったらしばらく立ち直れなかったかもしれないわ」と、口ではおどけた調子で言っていたけど、紛れもない本心だ。
エレナさんが教室を出るまでの間に何があったのか、ちゃんとはわからない。だけど今の彼女の心境と、普段の皆の心を聞いていれば、ある程度は想像できてしまう。
エレナさんは自分のことを責めているけど、その原因を作ったのは私に違いない。だから、私が話さなきゃいけないんだ。
「全部……わ、私が、説明しますから」
体をこわばらせたまま、半ば自分に言い聞かせるように、口に出す。
エレナさんは何も悪くない。エレナさんのせいじゃない。教室の皆にも、彼女自身にも、それをわかってほしい。
隣の教室は既にホームルームが終わっていて、廊下の掃除が始まっていた。何人もの心の声が幾重に被さり、エレナさんの思いはうまく聞き取れない。だけど、振り返った彼女の笑みにはまだ不安の色が残っていた。
私たちのクラスでは、まだ全員残って席に座っている。開けたままの扉の手前まで来たところで中の何人かがこちらに気付き、疲労と戸惑いの滲んだその顔に僅かな安堵が表れた。
もう一歩進むと、教室中から視線が一気に集中した。
全身がすくむ。同時に、クラスメイト達の心に抑圧された言葉が流れ込んでくる。そのほとんどは、私たちへの非難と疑問だ。
洪水となって、荒波となって、襲い掛かってくる。
「おかえり」
押し寄せてくる「声」に飲まれかけた意識は、ギアー先生の一声で引き戻された。
先生は教卓に両肘をついて、組んだ両手の上に顎を乗せている。首を傾げるように振り向き、普段通りの調子で私たちを迎えた。窓を背にして、こげ茶の短髪が陽に照らされ明るいオレンジ色になっていた。
「僕のいない間に何があったのか、だいたいはミリーさんから聞いてるよ。今、皆には、ルベリーさんが出て行った原因に心当たりがないか尋ねていたんだ」
本当にほんの少しだけ、私は胸を撫で下ろす。先生は冷静で口調も落ち着いている。表情も穏やかだ。いつも通りすぎて、かえって不自然なほどだった。
ギアー先生の心は、聞こえない。
理由はわからないけど、ギアー先生の心の声は、この半年間で一度も聞こえた試しがなかった。もう一人、隣のクラスの担任で魔法の授業を受け持っているパルティナ先生もそうだけれど、二人の共通点は思い当たらない。
もしかしたら他の先生のように、内心では私を疎ましく迷惑に思っているかもしれない。それを確かめる術はない。でも、事実がどうだとしても、この場で𠮟りつけられなかったことにはついホッとした。
入口で立ち止まったままの私を、先生はやんわりと促す。
「話せそう?」
こうしなさい、と暗に言うような含みはない、確かめるような優しい口ぶり。私がどうしたいと思っているのかわかった上で問いかけてきたように感じた。
ふと、じっと私を見つめるマリーゴールド色の瞳が、丸いフレームの眼鏡の奥で一瞬だけチカッと光を放ったように見えた。
気のせいだと思うけど、その光が私の目に飛び込んできた途端に、頭の中に反響していた「声」がすっと引き潮のように遠ざかったようだった。すっかり消え去ったわけではなかったけど、圧迫されていた胸が少し楽になった。
静かになった心の中に、一筋の光明が灯る。
(きっと大丈夫。信じるわ)
その言葉はカーテンの細い隙間から暗い部屋に差し込んだ朝日のように、世界を照らしてくれた。
今なら、足も動くはずだ。
私は教卓の横まで歩いていき、皆の方を向いた。まだ体は震えていて、その目を直視し続けることはできないけれど。
大きく息を吸い込む。
「……あの、そ、その……っ、ごめんなさい、今までも、ずっと、ごめんなさい。……謝ることが、沢山あります」
皆口を閉ざしていて、恐らく教室は静まり返っているんだろう。でもその胸の中で考えていることは全て伝わってきて、私の耳には一向に収まらない騒めきが聞こえていた。真剣に続きを待ってくれている人と、早くこの場から解放されたい一心の人がおよそ半々くらいだ。
怖い。
口がうまく回らなくて何度もつっかえるし、話の順序も整理されていなくて滅茶苦茶だ。
みっともない。
涙が滲む。
めまいまでしてきそう。
それでもただ必死に、懸命に喋る。
人の心の声が聞こえると打ち明けたとき、教室は疑惑で満たされた。そのうちの何人かは、事実である可能性も同時に危惧した。当然だ。すんなりと信じて受け入れたエレナさんの方が珍しいケースだったんだと思う。
でも、私の望みはこの力を受け入れてもらうことじゃない。
信じさせることは簡単だ。今日まで耳にしてきた皆の秘密を明かしていけば済むのだから。そんなの誰も望まない。私が伝えるべきなのはそんなことじゃない。
スカートの裾を握りしめて、深く頭を下げる。
勝手に覗き見た心を、勝手にその人の全てだと決めつけて、怯えて、酷い態度で傷つけてごめんなさい。
他人の心を見ておきながら、自分の心だけはひた隠しにする卑怯者でごめんなさい。
そんな私に資格があるはずないのに、許してもらいたいなんておこがましくてごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい……。
とうとう、ろくな言葉が紡げなくなった。全身からどっと汗が噴き出ている。皆の「声」が混ざり合って頭を埋め尽くしていく。もはやそれは言葉として聞き取ることもできず、ただただ雑音として鳴り続けた。
私はなんて惨めで弱い。まだまだ言わなきゃいけないことは山ほど残っているのに。
「わたしも謝るわ。ごめんなさい、みんな」
視界の端に、ぱらぱらと細い髪が広がる。
隣でエレナさんも頭を下げていた。
私が静止する間もなく、彼女はギアー先生へ訴える。
「先生。わたしが、みんなの気持ちを考えないで勝手なことをしたせいなんです」
違う、と振り向くよりも先に。
やめて! という一際大きな叫びが、突風が吹いたように頭に響いた。
その「声」の主はリーンさんだった。
手首のシュシュを握りしめ、瞬きもせずに泣きそうな目でエレナさんを見つめている。リーンさんの心がとめどなく聞こえてくる。何度も何度も繰り返し、やめて、と。
(違う! エレナは間違ってないじゃない! どう考えたって悪いのは――クズなのはあたしでしょ!?)
それは怒っているかのように荒々しく尖った「声」だけど、エレナさんへ向ける怒声というより、自らを糾弾する慟哭のようだった。エレナさんを責める声ではないと感じた。
――私、本当に、何もわかってなかった。
私が皆の本心だと思い込んでいたものは、常にその人の本音を、「答え」を示すわけではなくて、その場の瞬間的な感情に過ぎないものだったのかもしれない。
(どうしてそんなこと言うの。あたしを庇ってるつもり? 本気なわけ? どうしてそんなことができるの? そんなの、こっちが惨めになるだけ……)
やっと、理解できた気がする。
きっとリーンさんはエレナさんが心底憎いわけじゃない。エレナさんの想像は間違っていなかったんだ。
あの昼休み……初めてリーンさんが私に声をかけた、春の日。彼女の心の中はエレナさんへの対抗心でいっぱいだった。彼女の笑顔に裏があることを知ったのはあの日だった。
(いつもいつも、エレナばっかり。優等生ぶってみんなに褒められて、いい気になっちゃって。あたしだってそれくらいできる。そうよ、あたしが先を越せば……あの子に構ってあげればいいんだわ)
独りきりでいた私を誘ったのも、純粋な優しさじゃない。利用できると考えただけ。だから私はリーンさんの発した言葉を受け入れられなかった。今も彼女のことは苦手だと思う。
でも、リーンさんがそんな風に思う理由を、私は何も考えていなかった。エレナさんにそこまで嫉妬する理由は何なのか、想像したこともなかった。
聞こえる「声」が全てだと思っていた。だけど、これまでの全部が今、ガラリと色を変えていく。
リーンさんはエレナさんのようになりたいんじゃないか。本当は、愚かにすら思えるほど真っ直ぐで強いエレナさんのようになりたかったんじゃないか。彼女が本当に嫌っている人がいるとしたら、それはエレナさんではなく自分自身なんじゃないか。
つらそうな表情と「声」がそう訴えているように感じた。
だってそれは、私と似ているように思えたから。
スタート地点は、多分、私と同じ。
彼女にとってもエレナさんは太陽のような人で。眩しくて、憧れて、羨ましくて……手を伸ばしていたけど、その手が届く前に、どこかで足を踏み外してしまったんだ。
「みんな、ルベリーは悪くないのよ。聞いたでしょう? 心の声が聞こえるんだって。ルベリーはただ、どうしていいかわからなかっただけなの」
「二人はこう言っているけど、みんなはどう思う?」
ギアー先生は、話を続けようとするエレナさんから目線を外して皆の方を向いた。その目が向いたとき、リーンさんが肩を震わせる。
「今日はもうこんな時間だから、明日の朝、改めて話し合いをしよう。一度家に帰って、自分の心とゆっくり向き合ってみてほしい。あ、だけどルベリーさんは、あとでもう少し話を聞かせてくれるか?」
今度は私が名前を呼ばれてドキリとしたけど、頷くしかなかった。断ることはできない。それに、何と言われても自分の口で話さなきゃって決めたのだから。
そこからの先生は明るい口調でとんとんと話を進めていった。
「じゃあ二人も席について。遅くなってしまったけど、ホームルームをしないと。……と、いっても、今日は特に何もないか。ルベリーさんのことはまだみんなの胸の中に留めておいて、クラスの人以外には喋らないように。さ、終わり。掃除して帰ろう」
あっという間の解散に、皆も呆気に取られていたようだ。
先生は、誰のことも責めなかった。それが優しさなのか、失望からくるものなのか、無関心なのか、見極めようとしているからなのか、私にはわからない。ずっと温和な表情をしていたことに安心する反面、本音が見えなくて不安にもなった。聞こえても聞こえなくても結局恐れを抱くなんて、私は身勝手だ。
同じ掃除グループの人たちとは話せなかった。私をいないもののように扱っていた今までと違い、チラチラと視線を送って心の中でも私を意識していたけど、お互いにほとんど何も言えなかった。
エレナさんはまだ掃除から戻ってこない。リーンさんが眉を寄せてこちらを見ている。私は背を向け、鞄を取って逃げるように職員室へ向かった。