69.singer(1)
ワタシは歌が好きで、歌っているときは本当に幸せだった。
今でこそ、そう自覚している。
でも元々は、そんなに好きだったわけじゃないんだろうな。ワタシが歌うとみんな褒めてくれるから――クレアが喜んでくれるから嬉しかった、ってだけで。
クレアに届かないのなら、もう歌う理由なんてないと思っていた。少し、疲れたんだ。
シザーもわかってるかもだけど、当時は今以上に、色んな噂がワタシの周囲を取り巻いていた。学業のためにアイドルを休みます、と発表して、それを疑うことなく信じてくれた人が大半だったけど、中にはそのことで馬鹿にしたり見下してきたりする人もいたし。詳しく聞き出そうとする記者さんに道を塞がれて質問攻めに遭ったことも一度や二度じゃない。
だけど全部無視して、全部にごまかしの嘘をついた。クレアとの思い出には、赤の他人に気安く触れてほしくなかった。
本当の事情を知っているのはワタシたちの両親と、所属事務所の人たちと、去年クラス担任だったパルティナ先生……それくらい。あと、パリアンさん――衣装関係の仕事を手伝ってくれててプライベートでも仲が良かったお姉さんも、把握していたらしい。それはこの間知ったんだけどね。
説明する必要がある人にだけは話した。そうしなきゃいけないわけじゃない相手に、こうして打ち明けたのは初めて。
あの日暮れの路地裏で、もしもワタシを見つけて追いかけてきたのがシザーじゃなかったら、今隣に座っているのも違う人だったのかな?
この話を彼に聞いてほしいと思ったのは、あの時に彼が言った言葉を忘れられなかったからなのかな?
ふと、そんな疑問が浮かぶ。
ワタシはずっと静かな水面を見つめ、あの頃の気持ちを思い出していた。
活動休止に至るまでの経緯を全て語り終えたところで瞳を閉じ、小さく息を吐いて、隣へ視線を移す。シザーは言葉を失ったように口を小さく開けたまま固まっていた。
困らせたかな。
そうだよね。
「本当に、聞いてよかったのか」
そう一言だけ尋ねてくる。まだ戸惑っている様子だ。
「平気、お話したいって言ったのはワタシの方なんだから。ごめんね、こんな暗い話しちゃって。気を遣わなくっていいからね? 本当にもうワタシは大丈夫なんだよ」
しっかりと顔を見て笑ってみせたけど、シザーは逆に険しく眉を寄せてしまった。
「……それは嘘じゃないよな?」
「うん。本当。いつまでも泣きべそかいてるワタシじゃないよっ」
「けどそのせいで――、……や、そんなことがあったから、ショックで歌えなくなったんだろ。そんなの……」
「んっと……。そうだね、結果的にそういうことではあるんだけど、微妙にちょっと違うかも?」
ワタシの返答に、シザーは更に眉間の皺を深くして疑問符を浮かべる。だけど、問いかけてはこなかった。
言い方一つ一つに気を配って、ワタシを傷つけないような言葉を探しているみたい。尋ねても構わないことなのかと、ワタシの顔色を窺っているようにも見える。
ワタシが話したくないと言ったなら、きっと彼はそれも受け止めてくれる。ワタシが泣き止むまで隣にいてくれたあの日と同じように、何も言わず。
だけど、だからワタシは、貴方には全て聞いてほしいと思ったんだ。
木々の切れ間に流れる雲を見上げながら、続きを話す。
「ワタシね、ショックで歌うことができなくなったっていうより、歌っちゃいけないっていう気持ちだったんだ。自分でも知らないうちに、そうなってたの」
優しい風が、サワサワと葉を揺らした。前髪が額を撫でる。
自分でもついこの前に理解したばかりの感情。それなのに不思議と、冷静に喋ることができた。
学校へ毎日登校するようになってから、ワタシは確かに歌っていない。でもそれは、決して歌えないとか歌いたくないとかじゃなくって、理由がなかっただけ。
歌の授業もなかったし、ライブや収録がないならボイストレーニングをする必要もないし、一番歌を届けたい人はいなくなってしまったから。むしろ、それでもファンの為には歌わなきゃいけないって気負っていたくらいだ。
だけどそうやって思い詰めて歌った歌なんて、ワタシの歌じゃない。クレアも望んでないはず。そんな風に理由を付けて、しばらくの間は大人たちの優しさに甘えて、言われた通り休もうって思っていたの。
それにあの頃は、学校の中に溶け込もうとするのでいっぱいいっぱいでもあったんだ。勉強が遅れているのも全部嘘の話ってわけではなかったし。補習だけは免れていたとはいえ、ボーダーラインスレスレの成績だった。
でも、心を休めなきゃ、勉強をしなきゃ、って考えていても、気が緩むと休み時間でも授業中でも悲しい気持ちが溢れてきて、涙を零しそうになった。
みんなはワタシに笑顔を望んでいる。
だから、笑顔を作って耐えた。
誰にも気付かれないように、平気なフリをし続けた。
そうして何事もないフリを繰り返していたら、苦しくて胸が潰れそうなときも確かにあったけど、だんだん本当に平気な気になれた。それがいいことだったのか、悪いことだったのかは、わからない。
思い返してみると、ワタシが「ピアニスト」の作詞に躍起になっている間に転入してきたというネフィリーと仲良くなったことは、一番大きなきっかけだったかも。学校で初めてワタシにできた本当の友達ってネフィリーだったんじゃないかな。
あまり積極的じゃない性格で友達を増やせずにいたネフィリーと、良くも悪くもアイドルというフィルターがかかって同級生との間に距離があったワタシは、自然と一緒にいるようになった。
ワタシはたまにしか登校してなかったから、とっくに固まっていた人間関係の輪の中にうまく入り込めていなかったんだ。それから、ネフィリーはワタシのことを噂ですら何も知らなかったらしくて、そのことも都合が良かったのかもしれない。
だからなのか、教室の他の誰といるよりも、ネフィリーの隣は居心地がよかった。向こうも同じように感じていてくれたら嬉しいなって思ってる。
ネフィリーのおかげでワタシの心は少しずつ軽くなって、嘘じゃない本物の笑顔の回数も増えて。
それと反比例するように、クレアのことを思って涙が込み上げてくる回数は減りつつあって。
そんなときだった。
あの日は確か、ルミナと初めて話した日だ。引っ越してきてすぐだったルミナに商店街を案内していた。
その後、ルミナと別れて一人になったワタシは大通りから外れていった。お気に入りの雑貨屋さんを見に行くつもりで、近道を抜けようとしていた。
平日の夕暮れ、見晴らしが悪く狭い道、人通りは少ない。角を曲がるときに、向かい側からやってきた人と鉢合わせる。
そこは街灯の真下で、照らされたワタシの顔がちょうどバッチリ見えてしまったんだろう。その人は口と目を大きく開けると、嬉しそうな歓声を上げてワタシの名を呼んだ。急いで伊達眼鏡をかけ直しごまかしたけれど、もう手遅れだった。
出会ったのは二人組の女の子。王立魔導学校の制服の黒いマントを羽織っていて、二つか三つくらい年上のようだった。
握手をお願いされて、その後にも話しかけられたのはちょっと困ったけど、別につらいことはなかったんだ。二人は気さくで明るくて、話しやすかった。
『本当に街でアイドルに会うことってあるんですね……! 何か買い物ですか? あっ、隠れて来てるんだったら、ちゃんと内緒にするので大丈夫です』
『あたし達、サンローズにカラオケしに行くところなんだ。せっかくだから今ここでちょっとだけ歌聞かせてもらえたり……なんて、やっぱダメよね?』
そう聞かれたときだって、アカペラで一フレーズ程度ならいいかなって初めは思ってた。
ワタシの歌を待っているのは、クレア一人だけじゃなかったんだから。数ヶ月前に比べれば、気持ちはだいぶ落ち着いている。今なら前までのように歌えるかもしれない。そう思って。
なのにどうしてか、息を吸って歌い出そうとした途端にワタシの喉は引きつってしまった。
息を吸い込んだときに、幼い頃のクレアのキラキラした目に見つめられているような気がした。ただ、その瞳は透き通った空色ではなく、雨雲のように黒く濁っていた。
喉元に固い石をぐっと詰め込まれたみたいに苦しくなる。
ぎゅっと体中がこわばり、どんどん胸が塞がって、唇が小刻みに震えて。
こんなこと初めてで、訳がわからなくて、混乱で視界がぐるぐると回る。
俯いてぴたりと黙りこくってしまったワタシを、二人がきょとんとした目で見つめている。ワタシは動揺を悟られないように声を絞り出し、顔を上げて笑顔を作った。
『……ご……ごめん、なさい。ワタシ、行かなくっちゃ』
『ううん、いいよ。あたしこそ変なこと頼んでごめんなさい。気にしないで!』
『帰ってくるまでずっと待ってますね、ミリーちゃん!』
二人の気遣いと応援の言葉が胸に刺さり、居たたまれなさと申し訳なさがたまらなく膨れ上がっていく。
ワタシはすぐに角を曲がって細い脇道に入り、彼女たちが見えなくなったのを確認すると、走って逃げ出した。
そこから先はもう、貴方も知っている通りだよ。二人の姿がすっかり見えなくなるくらい遠ざかってからもワタシは闇雲に何かから逃げ続けて、誰も来なさそうな何もない路地裏に辿り着き、うずくまって泣き顔を隠した。シザーがやってきたのは、そんなときだった。ワタシの様子を気にして、後を追ってきてくれたんだったね。
あの日歌えなかったことは、とてもショックだった。理由もさっぱりわからなくて、何も話せなかった。
どうしてあんな風になってしまったのか、今は言葉にできる。
歌おうとしたときに、もう歌えるって思った瞬間に襲いかかってきた感情の正体は、恐怖だった。
それはクレアを忘れていくことへの恐れ。
クレアのいない客席に向かってもそれまでと変わらず歌えるようになってしまったら、いつかクレアがいたことも忘れてしまうかもしれない。その可能性への怯え。
歌うのは楽しいよ。だけどそれは、クレアに出会いクレアに教えてもらわなければ知らなかった気持ちなんだ。
クレアは音楽を愛していた。中でもピアノを奏でることが大好きで、そのひたむきな姿にワタシは惹かれた。憧れて、真似をして、同じ世界を隣で見てみたいと感じた。
みんなが褒めてくれるワタシの歌の世界というのは、そうやってクレアに分けてもらったもの。歌が好きという思いをワタシに芽吹かせたのは、クレアの力。大勢の歓声も、降り注ぐスポットライトの光も、ワタシが自分の力で手に入れたものじゃないんだ。
だけど、クレアがいなくなった後も、それらは失われていない。
悲しい気持ちになる回数が減って、涙が溢れてくることがなくなって……それで、目まぐるしく移り変わるあの世界に戻っていったら、ワタシはどうなるだろう。
忙しさと楽しさに溺れていって、次第にクレアに歌を届け続けた記憶すら薄れていって、クレアにもらったものを初めから自分だけで得たものだったと勘違いしてしまうんじゃないか。
そんなのワタシが許さない。
ワタシばっかり幸福じゃいられない。
知らず知らずのうちに、そうやって自分自身を締め付けていた。じっとワタシを見つめていた昏い瞳の正体は、ワタシ自身の瞳だった。
周りの人はみんな、ワタシに優しい言葉をくれる。活動休止に至った本当の理由を知っていても知らなくても。可哀想に、とか、応援してるね、とか。
その度に、胸を締め付けられた。だってワタシはそんな言葉をもらっていいような人じゃない。ワタシはまだ半年前の自分を許せないのに。それなのに、誰もワタシのことを責めないの。
ワタシだけが、ワタシの後悔と子供じみた愚かな失敗を知っていた。だからワタシだけは、ワタシを許しちゃいけなかった。
クレアを忘れないために。自分を罰するために。そのためにワタシは歌っちゃいけない――歌えない。
自分で締めたその鎖の存在には長い間無自覚だったけど、多分、しっかり重圧はのしかかっていたんだ。
自責の念に堪え切れなくなっていたワタシの心はいつしか、その感情を押し付けるためだけの、クレアの姿をした虚像を作り出していた。雨雲のような黒に染まった目をしたクレアの幻を見て、その口を通して戒めの言葉を言い聞かせることで、心を保っていた。
でもね、この前そのことをようやく自覚して、そのいびつさがやっとわかって。それで、少し楽になれたの。
――こんなこと願っちゃいけない。”わたし”が許さない。だってそうしたら、多分、そのまま”わたし”は……。
――ミリーの道を決めるのはミリーなの。クレアちゃんの思いも、クレアちゃんだけが決められるの。それはミリーの決めることじゃない。
ワタシの間違いを、はっきり指摘してくれた人がいた。
――死人は何も言わねえだろうが。
クレアが最期に伝えてくれたことは何だったのか、思い出させてくれた人もいた。
それに気付かされたとき、ワタシ今まで何やってたんだろう、って情けなかった。忘れないために、って思っていたことだったのに、実際には真逆の方向に進んでいたなんて。大バカだ。
もう間違わない。
クレアの本当の気持ちを見誤らない。自分の本当の願いに嘘をつかない。
クレアはもう帰ってこないけど。どんなに大事な思い出もいつかぼやけて色褪せてしまうかもしれないけど。それは、とても怖いことだけど。
でも、きっともう二度と忘れない。忘れるはずがないんだ。
ワタシの手には、形となった想いが確かにあるから。沢山の言葉を、手紙として受け取ったから。
それがクレアの本当の気持ちだと、心からの言葉だったと、胸に強く刻む。信じ続ける。
忘れないために、歌い続ける。
歌が続く限り、忘れない。
――わたしは、ミリーの歌にいっぱい元気をもらいました。これからもずっと、ずっと、応援しています。
クレア、ごめんね。
ワタシの弱さのせいで、長い間あなたの願いから目を背けて、遠ざけてしまっていた。ワタシたちの気持ちは重なっていたはずだったのに。
クレアはワタシに歌ってほしいと、ずっと言ってくれていたね。
ワタシも歌いたいよ。
ずっと、ずっと、歌いたかったんだよ。