71.知らず知らずに
それは、特別な物語。
ミリーの心の最も深いところに仕舞われた、ガラスのように割れやすい繊細な感情で彩られた思い出でした。
時折、涼やかな夕暮れの風が吹いて静かな泉の水面に波を立て、木々がさわさわと揺れます。
広大な森の中の小さな泉のほとりで、全てを語ったミリー。
シザーはその隣に肩を並べ、黙って耳を傾けていました。
私がミリーから重苦しい霧の気配を感じなくなったと気が付いたのは、ずいぶん経った後のこと。
元より、彼女の心が霧や渦を生じさせているのを見たことはほとんどなかったのです。覚えている限りでは、初対面の日のみ。そしてそれは先日のルベリーの一件と比べ、決して主張の激しいものではありませんでした。
あの黒い霧や渦をミリーの周囲で頻繁に見ることがなかった原因は不明です。それは私自身の問題だったのか、それとも、ミリーが器用に心を取り繕っていたのか。未だに定かではありません。
今更どんなに思い巡らせ、どんな言葉を並べ立てたところで、言い訳でしかないのですけれど。
私とミリーはクラスが違いましたので、学校でも毎日顔を合わせるということはありませんでした。
そうは言っても教室は隣同士ですし、廊下に出たときや登下校のときなどに見かけることはあります。いつ見てもミリーは明るく笑顔で、そこに裏があるようには思えませんでした。
けれど本当は、どうだったのでしょうか。私には肝心なことが何一つ見えていなかったのではないでしょうか。
ミリーの胸の内に「それ」が秘められていることは、ずっと前から知っていたはずなのです。商店街で彼女と知り合った日に一度、紛れもなくそう感じたことがあるのですから。夏休みが明けてからも一度、彼女が零した弱々しい呟きを確かに耳にしていたはずなのですから。
あれは、暗い感情を笑顔で覆い隠すことの上手なミリーが表出させた数少ないサインだったのかもしれなかったのに。
私にはそれに気付けるだけの「能力」があったはずなのに。
私はミリーのために何もしなかった。
何の行動も起こさなかった。
知らなかった。
そのため、彼女が一体どんな思いを抱え込んでいたのか、その淀みが本当に解消されたのかどうか、私には判断ができないのです。
シザーに話を聞いてもらっているとき、パリアンさんやバレッドさんの店で相談をしているとき、その場に私はいません。初めにお断りさせていただいているように、私に語ることができるのは自分の見聞きしたことだけ。そして、それらの出来事が全て終わった後に、当事者である友人たちから伝え聞いた内容だけでございます。
あの日ミリーとシザーが森の中で何を話したのかは、二人の間だけの秘密。
私の知らないところで、ミリーの心を曇らせていたものは取り払われたのです。
私は何もミリーの力になれませんでした。
そのことに、長らく気が付きもしなかったのでありました。
学園祭の開催まで、ついにあと一週間を切った頃。
当日に来場者に配るパンフレットが完成し、皆に配られました。文字もイラストも全てが手書きで、十ページ程度の紙に糸を通して製本した、生徒手作りのパンフレットです。下校前のホームルームは大賑わいとなり、パルティナ先生に軽く注意を受けました。
最初のページを捲ると、校長先生と実行委員長の言葉が掲載されています。その次は校内の地図と各クラスの出店の紹介があり、有志のステージ発表のプログラムに続きました。一グループ十分程度のパフォーマンスが、講堂で丸一日通して行われるようです。
閉会式では最も人気を集めた出店とステージを発表することになっていて、その投票のためのアンケート用紙も綴じ込まれています。そして最後に、自由参加の後夜祭ではキャンプファイアとフォークダンスを行うとありました。
「あー……今年の開会式はミリーちゃんのライブ無さそう」
「ねー。でも仕方がないよ」
「だよね」
教室内のどこからか、そんな会話が聞こえました。どうやら、昨年の開催セレモニーではミリーが歌を歌っていたようでした。
私はステージのプログラムのページを机の上に開きます。同じクラスに、特技のダンスで参加する友人がいたからです。
ずらりと並んだ一覧を上から辿って彼女の名前と発表の時間を探していると、別の友人の名前を先に見つけました。キラの正面の席に座る男の子で、私の席からもすぐ近くです。四人の友人とバンドを組んでライブをするらしく、パンフレットにはバンド名とメンバー全員の名前も細かく記載されています。
彼らのライブは午後のトップバッターで、彼女のダンスは最後から二番目です。私の知人の名は、そのクラスメイト二名のみでした。
プログラムの確認をした私は、椅子から腰を浮かせてその男子生徒に話しかけます。彼は笑顔で振り返りました。
「楽器できるの? 凄いね、知らなかった! どんな曲やるの?」
「東の国のロックンロールだ、有名な曲多いと思うぜ! ちなみにおれはドラム。キラも来いよ? そんで一票よろしくなっ」
「ロックか……、あ。この時間、オレ店番だ。悪いな」
「マジかよオイっ。じゃあせめて投票だけでも!」
「お前はそれで本当にいいのか?」
彼は声高に宣伝するも、淡々としたキラの返事を受けてガクッとコミカルにつんのめります。キラはクールな反応でした。
少し遠い窓際の席の方では、ステージ発表にエントリーする彼女とネフィリーが喋っています。
「この時間に講堂だね。見に行くよ、頑張って。大勢の観客の前で何かするなんて、私は絶対無理。緊張しないの?」
「するに決まってんじゃん!? でもやっぱ楽しいし、わたしの取り柄ってそれくらいだし。頑張る! やるからには、目指せ最優秀賞!」
この放課後、私は二人の傍まで行って、出店を一緒に回らないかと誘いました。当日も最後の調整に精を出したいという彼女とは都合が合いませんでしたが、店番のシフトが一緒でもあるネフィリーは快諾してくれました。
「でも、ミリーもいい?」
「もちろん! もしかして、先にミリーと約束してた?」
「うん。だけど、まだ向こうのシフトがどうなったのか聞いてないんだ。最近何だか忙しそうにしてて、タイミングなくって。今日の掃除の後、また聞きに行ってみる」
「じゃあ私も一緒に行くよ」
「うん」
「前から思ってたけどさ……ミリーちゃんと普通に友達できるの、羨ましいわ」
そう言われて向き直ったネフィリーは、顔に疑問符を浮かべます。
「ネフィリーなんて、去年からずっと仲いいじゃん?」
「う、うん。まあ。クラスが同じだったから」
「そうじゃなくて」
私は昨年までのミリーと周囲の様子を知らないけれど、彼女が言わんとしていることは少しわかりました。芸能活動を休止していても尚、学校中に知れ渡る程の噂を立てられる彼女ですから、皆にどれだけ注目されているのかは想像に難くありません。私はアイドルとしてのミリーを実際に見たことがないため、その凄さに実感を覚えることなく接することができていただけなのであります。
「……ミリーが目立つ人なのはわかってる。私が隣にいていいのかって思うことも、無いわけじゃないよ。だけど私には初めての友達で、ミリーといるのは楽しいもの。……あ、その、この学校で初めての……って意味だから」
ネフィリーはそのように答えました。少々気恥ずかしそうでした。
私がミリーを初めて見たのは、まだパルティナ先生から魔術科の補習を受けていた頃の放課後。皆にとっては、二学年に進級してクラス替えがあってから一ヶ月ばかりの頃です。
その頃に、一緒に帰ろうと隣のクラスに赴いてまで声をかけてきたのはミリーの方だったことを思い出しました。皆で夏休みに集まって遊ぶ計画を立てていた時も、ミリーが率先してネフィリーを誘っていたことを思い出しました。
それはただ友人として自然な振る舞いであって、深い意味はないかもしれませんけれど。
ミリーにとってのネフィリーの存在は彼女自身が考えるよりもずっと大きく、大事な日常の一部になっているのではないかと、私には感じられたものでした。