73.嘘を嫌ったウソツキの告白
一日の営業時間を終えて照明を落とした喫茶店は、その内装と相まって静まり返る夜の森のようでした。レジとカウンターの傍だけに明かりが灯っており、その二ヵ所で二人の人影が最後の後片付けをしています。一人はパフィーナさんで、もう一人はティーナでした。
伝票の束を引き出しにしまってレジ周りの仕事を締めたパフィーナさんは、その場からティーナに呼びかけます。
「時間はある? そっちの片付けが終わったらそこの椅子で待っていて。今日のケーキの残り、食べていってちょうだい」
「やった~、いただきます!」
カウンター裏の流しを清掃していたティーナは歓声を上げました。周辺の仕事を全て終えると、ポニーテールを揺らして軽やかな足取りで客席側に回り込みストンと座ります。
パフィーナさんが厨房から持ってきた銀色のバットには、ケーキの切れ端がぽつぽつと数種類乗っていました。その中から一つ、少し焦げ目が付いたチーズケーキの角をちょうどいいサイズの小さなお皿に移し、デザートフォークを並べます。
「今週末はスズライトの学園祭に行くから、お休みなのよね?」
「そうです、お願いしまーす」
差し出されたお皿にティーナはすぐに手を伸ばし、ケーキを一口で頬張りながら間延びした声で返事をしました。
「また今年もミリーちゃん探してくるんですよ!」
「楽しそうでいいわね。ルミナさんに案内してもらうの?」
「いえ、それはルミナの他の友達に気を遣わせちゃいそうなので。クラスの場所と店番の時間は教えてもらったので、そこだけ会いに行ってきます」
「そうなの」
パフィーナさんは頬杖をつき、軽く体を傾けます。
ティーナの顔を覗き込むように、うっすらと微笑みながら瞳を妖しく光らせて。
「貴女はルミナさんのことが嫌いなのだと思っていたわ」
甘味に目を細めていたティーナは、その目を開きゴクンと喉を鳴らしました。デザートフォークの先端が揺れて皿にぶつかり、カツンと小さな金属音を立てます。
「彼女、ここ最近よく来ていたけれど今日までずっと避けていたでしょう? でも平気よ、あの娘自身も誰も気が付いてはいないから」
「いや、あのー、わたしまだ何も言ってないんですけど」
「違っていたかしら?」
「違いますよ、どうしてですか?」
ティーナはフォークを置いて苦笑しました。
「どう、ということもないのだけれど。何となくね」
「えぇ……」
ケロリと答えるパフィーナさんに本気で呆れた様子で、への字に口元を歪めます。
「でも、そうね。強いて理由を言うとしたら、貴女が幸せそうではなかったからかしら」
「はい?」
パフィーナさんが続けた言葉はティーナの意表を突き、間抜けな声が漏れました。
「自分にとっての幸せとは大切な人の幸せだと、面接の日、私の質問に答えてくれたわね。覚えている?」
「……そうでしたね。いきなり変なこと聞く人だな、ここで働いて大丈夫かなって思いました」
「正直者だこと。私は好きよ、貴女のそういう性格」
「………」
そう評されたとき、ティーナはかすかに顔をしかめました。
パフィーナさんは変わらずに薄く微笑んでいます。
「ティーナさんにとっての幸せは、ルミナさんに阻まれる可能性があったのではなくて?」
「まさか。ルミナがそんなことするわけないですよ」
「ええ、あの娘も誰も悪意を持っていないわね。だからこそ複雑で、悩ましいのよ」
「何の話ですか」
「さあ、何の話だと思う?」
進まない問答の中、彼女の前へ無言でもう一皿、今度はブラウニーとバニラ風味のロールケーキの端が提供されました。
それはさながら尋問されているかのようで。
ティーナはケーキに手を出せず、黙って見下ろしました。手のひらに汗が滲みます。
険しく眉を寄せつつも笑顔を作るティーナと対照的に、パフィーナさんは涼しい顔で平然としていました。
「……お客さんの誰かから、何か聞きました? 何が目的ですか?」
「目的も何も、私は単に貴女の話が聞きたいだけなのだけれど」
「今の店長、悪魔みたいですよ」
「まあ。悪魔に会ったことがあって?」
「いや無いですけど! 例えです!」
そう声を上げられても余裕そうに、口元に手を添えてクスクスと笑います。
ティーナは溜息を一つつきました。
「本当に嫌いじゃないです。ルミナは、わたしの親友にとっても友達なんですから」
「友達の友達とは仲良くしなければならない、なんてルール、世の中にはなくてよ? 無理に仲のいいフリをする必要はないの」
「だから無理もしてませんって。素直で優しくて……ルミナのそういうところって、わたしの親友にも少し似てるんです。あの子もルミナを気に入ってます。だから、嫌いになれるわけがないです」
「そう。でも、貴女の親友さんのことは貴女から聞いた話でしか知らないけれど、それって本心なのかしらね?」
パフィーナさんは意地悪な口ぶりで言いました。芝居染みた所作で首を傾げて、仄暗い天井へ目を動かします。
「人間は平気で嘘を吐くでしょう? けど、嘘を生むのは悪意だけではなく、善意のときだってあるわよね? 無理をしているのは優しい優しい彼女、という可能性も考えられるのではない?」
「それは……」
ティーナは言い返そうとしたけれど、言葉が続きませんでした。瞳が揺れて、俯きます。目元に暗い影が落ちました。
反面、パフィーナさんは尚も楽しげで、自分のペースを崩しません。ティーナの不安そうな様子はまるで目に映っていないようです。
「なんてね」
縦に巻いた髪を揺らし、くるりとパフィーナさんが向き直ります。
「他人の気持ちを憶測で語るのは不毛だわ」
「……そうですよ」
「と言っても、貴女にはその意味も権利もあるのよ」
「え……?」
「ティーナさんは赤の他人ではないのだから」
不審がるティーナの目の奥を、ゼリーのような桃色の瞳が真っ直ぐに見つめました。
「お友達が心配になるのは当たり前。貴女の幸せの形を思えば尚更よ。だからその結果、別のお友達に悪い感情を抱くことになったのだとしても責められることはない。私は責めない。むしろ、そうやって思い悩む貴女は可愛らしくって親しみを覚えるわね」
ニコリと屈託なく笑う顔は、一転してティーナを安心させるような表情でした。
元より、動揺の原因もまた彼女ではあったのですけれど。
ティーナの眉間に寄っていた皺が消えて、呆れた苦笑いが戻ってきます。力んでいた手と肩から力が抜けました。
「悪魔みたいって言ってごめんなさい」
「いいのよ」
「悪魔じゃなくて、魔女の間違いでした」
「酷くなっていない?」
「そうですか?」
軽口を言って笑いながらもう一度フォークを手に取り、ケーキの欠片を更に半分に切って口に運びます。甘い味わいが儚く溶けていきました。
「それにしても、ティーナさんは本当にその親友さんのことが大好きね。何かきっかけでもあるのかしら?」
「……面白い話じゃないと思いますよ?」
「人と話すのはどんな話題だって面白いわよ」
「いやいや……ああ、店長は本気でそういう人でしたね」
ティーナは最後の一欠片を飲み込み、フォークを置きます。パフィーナさんはそれを引き取って、バットと合わせてサッと洗い流しました。
蛇口から流れ落ちる水の音が静かな店内に響きます。
「正直者は馬鹿を見る、って言うじゃないですか」
おもむろに切り出したティーナにパフィーナさんは一瞬だけ僅かに目を見張り、水を止めました。
「そんな考えもあるかしら」
「母がよく言ってました。でも、わたしはその言葉が嫌いでした。別に、親のことまで嫌いというわけではないですけど、嫌だなって……でも、世の中はきっとそうなんだろうとも思ってて。……諦めてたんです」
「そう……きっとご両親にも、ご両親の理由があるのでしょうね。人の家庭の教育方針に口は出せないけれど」
「店長も……正直に生きるのは損するだけだって思います?」
上目遣いで問うティーナの視線を、パフィーナさんはすいっと避けます。
「さて、どうかしら。難しい問いだわ。この答え方によっては、私の好感度が下がってしまいかねないものね。困ったわ」
「何ですかそれ、答える気が無いだけですよね。嘘吐きだ」
ごまかそうとしたようでしたが、ティーナは流されませんでした。口を尖らせて指摘すると、パフィーナさんの目線が戻ってきます。けれど結局、先の問いに答えることはありませんでした。
「ふふ。私の一言などに左右されてほしくないのよ。そのようなことは自分の頭で考えなくては。人の意見を参考にするくらいはいいけれど、もう自分の答えを持っているティーナさんには必要ないでしょう?」
「……まだ少し、自信ないですけどね」
「貴女は若いのだから、それくらいがちょうどいいわ」
店長もそんな年じゃないでしょう、とティーナは内心思ったけれど、口にはしません。また笑顔ではぐらかそうとすることが読めていました。
ティーナは、店仕舞い後の店内に最後まで残ることがよくありました。その度に、パフィーナさんとはこうして様々な話をしたそうです。
しかしその話題はほとんどティーナにまつわることであって、パフィーナさん自身の話は滅多にありませんでした。人の話を聞くのが好きだと公言するけれど、正しくは自分の話をしたくないのだろうというのがティーナの見解です。
それならばそれでいいと、ティーナは彼女を聞き手として利用させてもらっていたのでした。パフィーナさんは自分から話をしない代わりに、人の話は何でも受け止めてくれます。いつでも、誰相手でも、どんな話題でも、お客さんの話に耳を傾け続ける日頃の様子からそう捉えていました。
「わたしの親友は、人の嘘を見分けたり人の裏を読んだりが苦手で、真っ直ぐな……本当の正直者です。あの子の純粋さがわたしにはとっても眩しかった。世の中は母の言う通りかもしれないけど、あの子が悲しむのは納得できないし許せません」
それは、気安く吐露するのは憚られる感情。
それでいて、一人で抱え続けるには重い感情。
その重みを外に吐き出すことで、心をほぐしていきます。胸の底に渦巻く淀みを溶かしていきます。ほとんど独り言のつもりであり、パフィーナさんが途中で口を挟むこともありませんでした。
「やりたいこと、こうなりたいって思えることが見つかったのは、全部あの子がいたから。両親の言葉を黙って聞くだけだったわたしが初めてそれに反発して、自分の意見を持てたんです」
本心を打ち明けるティーナの顔は穏やかで、瞳には温かな明かりが灯っています。その明かりごと、瞼を閉じました。
「わたしの中にあるのはこれだけですよ。この気持ちがなくなったら空っぽです。ほら、面白くない」
「そんなことはなくてよ。そう、だから貴女は大切な彼女の幸福を願うのね。素敵なことだわ。きっと彼女も、ティーナさんに救われているはずよ」
「救い、ですか。ほんと何を聞いたんですか……」
目を開けると、パフィーナさんの柔らかい眼差しがティーナに向けられていました。魔女のようと称された先程までとは打って変わって、我が子を見守る母親のようでした。
「ただ、一つ私から忠告するとすれば、その想いも行き過ぎないように……かしら。人の幸福はその人自身にしか決められないのだから。ティーナさんが彼女の幸せだと考えることが、はたして本当に彼女にとっての幸せかどうかはわからないもの」
「はい、それはもう、本当にそうですね」
「ふふ……。やはり、貴女は正直者よ」
「この話の流れでそれを言いますか」
ティーナは少し気恥ずかしそうに眉を下げながら、笑みを零します。
自分に正直でいたかった。
素直に生きられる人でありたかった。
彼女が私に話してくれたことがあります。
この日から何年も過ぎた、ある時のことです。
弱い自分は卑怯で醜い嘘吐きに成り果ててしまったけれど……と、ティーナは自らを評していました。
そんな自分と違う『あの子』、すなわちメアリーはとても綺麗で、強くて、同時に脆くもあり、その光が翳ることがないように守りたいのだと。どれだけの年月が経っても変わらずに、誰よりも大事な人なのだと。ティーナはそう語りました。
その想いはいつでも彼女の中に貫かれていたのでしょう。
出会ったばかりの頃に私へ向けていた本当の心も、打ち明けてくれたことがありました。
今となっては、それは胸中に秘めたままでもよかったはずなのですけれど。そんな隠し事を抱えたまま私との付き合いを続けたくないのだと言って、包み隠さずに当時の思いをぶつけてくれました。
その真っ直ぐさを正直者と呼ばずして何と呼ぶのでしょう。
一度も嘘に頼らず生きられる人などいません。
ティーナは自分を嘘吐きだと言ったけれど、そう思っているのはきっとティーナ自身だけなのでした。
彼女の物語を優しく噛み締めるように、パフィーナさんが呟きます。
「そんなにも愛する人がいるというのは、羨ましいわ」
「それはつまり、恋人いませんってことですか?」
「あら……今の言い方だと、そういうことになってしまうわね。口が滑ったわ」
気が緩んだのでしょうか。珍しく、パフィーナさんが私生活を垣間見せました。その隙をつつくように、すかさずティーナは反撃を始めます。
「でもちょっとそんな気がしてました。店長はどんな人でも好きだって言いますけど、それって全員どうでもいいってことでしょう?」
「ちょっと? 酷い言われようね。貴女は正直というより、遠慮がないのかしら」
「店長には遠慮する必要ないですから。どんな話題でも面白いって言いましたもんね?」
得意げな顔で言い返すティーナに見上げられ、パフィーナさんは虚を突かれたように目を丸くしました。
それもほんの数秒間のこと。すぐに、ふわりと含みのある笑みを浮かべます。
店内の暗がりに浮かび上がり、僅かに発光しているように錯覚する双眸は桃色。
「そうね。面白いわよ、人間は」
一瞬だけ、艶やかに輝きを放ったかのようでした。