78.青いかがり火(2)
レルズは体勢を整え、改めてスティンヴのぶすっとした表情に目を向けます。二人とも、これといって何も言いません。ただ一息を吸って吐くと、レルズはスティンヴの横にゆっくりと座りました。
しかし、しばし目を泳がせ、ぱくぱくと口を小さく開けたり閉じたりしたかと思うと、わっと頭を抱えて唸ってしまいます。
「あぁー、うーん、でもなー! これお前に相談してもなー!スティンヴにわかる話だとは思えねーんだって」
「失礼なのはどっちだよ。だいたい、何を勘違いしてる? ぼくは相談に乗るなんて一言も言ってない。レルズが話したいんなら聞いてやってもいい、ってだけ。大方あのアイドル絡みで、好きなのがバレるから誰にも話せなかったんだろ」
「好……!」
両手を頭から離してぴたりと固まったレルズは、ただでさえ大きな目をますます広げていました。半開きの口元が小刻みに震えましたが、言葉は出てきません。
スティンヴは意にも介さず続けました。
「お前はわかりやすすぎる。ごまかしてたつもりなんだろうが、この頃ずっと変なんだよ。だいたい、何がそんなに恥ずかしいんだ? どんな趣味だろうと人の勝手だろ。馬鹿にする奴らがいるなら無視してほっとけばいい」
「ま、ちょっと待てよっ、今は別に、そこは関係なくて……」
「嘘つけ」
ぎろりと容赦のない視線と言葉が、ぐっとレルズをたじろがせます。
口ごもりながらも、レルズは打ち明け始めました。
「う……確かに、無関係じゃなくはないかも……。だ、だけど! それはどうでもいいんだ!」
「何言ってんだこいつ」
「これは俺の……俺だけの問題だ。どっちがいいのかわかんなくて、俺が一人で迷ってるだけ。何て説明すりゃいいかな……」
「二択か」
「……まあ、だな」
煮え切らない漠然とした言い方にスティンヴは眉を寄せて、急かします。
「なら単純な話だ。はっきり言えよ、ぼくが正解選んでやるから」
「そ、それは嫌だ」
「何だよ。偉そうに」
「偉そうなのはお前だろ! ……俺だけの問題っつったけど、俺の気持ちだけの話じゃないから、べらべら喋りたくねーんだよ。真面目に」
「………」
スティンヴは閉口し、返事の代わりに小さく舌打ちをしました。
レルズが悩んでいたのは、先程のジェシカへの返答に他なりません。
実のところ、本心はとうに自覚していました。
彼女に誘われたとき、思い浮かんでしまったのは違う少女の顔。自分の胸に生じた感情は戸惑いと後ろめたさ。それが答えでした。しかしそれは同時に、皆が幸せにならないであろう道を指し示してもいました。
自分の心に鍵をかけ、受け入れるべきか。
彼女も、自分自身すらも報われない選択と知りながら、断るべきか。
気遣い屋な彼は、自分一人が思いを押し込めれば誰も傷つくことなく全て丸く収まるのではないかと苦心していたのです。
腰を下ろした地面の冷たさが、全身に這いずるように伝わってきます。あの瞬間に何の一言も伝えられなかった自分を恨めしく思いながら、レルズは膝を抱えてきつく指を食い込ませました。
「どうせ勝ち目ないって――敵うわけねーんだってわかってんだし、スッパリ諦めて忘れるのが一番いいに決まってんだよな。そうした方が誰も傷つかないって、わかってんだ……」
「……は?」
「さすがの俺も、勝てない勝負に挑むほど馬鹿じゃ――」
「ふざけるなよ」
「え」
苛立ちを隠さない荒々しい声が、ぴしゃりとレルズの話を打ち切らせます。
スティンヴは口を歪めて大きな溜息と共に吐き捨てました。
「そういうウジウジした弱気なとこ、本気でうっとうしい」
「何だよ、ひっでえな!? 励ます気ゼロかよ! 俺だってそろそろ凹む――」
「戦ってもいないくせに。何が『勝てない勝負』だ」
「……あっ」
その反芻を受けてハッとしたレルズは、即座に口をつぐみます。彼自身もそれが失言であったことに気が付きました。
しかし、既に手遅れ。スティンヴはすっかり不機嫌になり、膝の上で拳を握ってまくしたてます。
「聞いてるだけで腹立つな。逃げてるだけの腰抜けで馬鹿野郎だ、お前は。賢い選択でも何でもない、死ぬほどダサい」
「お、俺は別にスティンヴのこと言ったつもりじゃねーって」
「うるさいな! 余計なフォローなんかいらない、やめろ」
「……悪かったよ」
素直に謝罪を述べましたが、スティンヴの怒りが収まった気配はないようです。彼は続けます。
「負けるのも失敗するのもぼくは嫌いだが、挑む前から負けるって決めつけて戦いを放棄するのはもっと嫌いだ。大嫌いだ」
強い意思のこもった鋭い目が、レルズを射抜いて離しません。
陽の光を受けて透かされ、青い輝きをたたえています。
「二択だって言ったな?」
「え、お、おう」
スティンヴは一呼吸を置き、改めてレルズの瞳を一直線に見据えました。
「勝ちに行く方を選べ。逃げるな」
淀みなく、短く言い切って、プイッと顔を背けます。
「そんだけ」
それは自身の感情によって溢れ出したものに過ぎず、応援でも激励でもない、とスティンヴは言うでしょう。
ですが、その言葉こそがレルズの背を強く叩き、真っ直ぐに立たせたのです。何とも彼らしい、乱暴でありながらも力強さに満ちたエールではないでしょうか。
このとき、レルズの中では別の声も響いていたのでした。
――そういう考え方、よくないと思うわ。
――そうやって言い訳して勝手に身を引いて、本当に満足? ちゃんと自分で納得しないままじゃ絶対後悔するわ。言っておくけど、わたしからすればあなたの態度はどう見たって恋してる人のものよ。
――その思い、大事にしなさい。
それは以前エレナに言われたこと。何ヶ月も前の話だけれど、彼の胸の奥に鈍く重く淀み続けていた声。
その記憶が蘇り、スティンヴの声と重なって反響していました。
「気が強えなぁ」
長く息を吐いて、全身から力を抜いて前かがみに倒れ込みながら、その下でレルズは笑みを零します。
シザーがやってきたのは、ちょうどそのときです。
時間を鑑みるに、音楽室のゴミ捨てを終えた後でした。角を曲がってきたシザーはどことなく上の空な様子です。二人に気付いて締まりのある目つきに戻るまで、少しの間がありました。
「……あれ、お前らいたのか。クラスの手伝いしなくていいのか? まースティンヴはキャラじゃねーけど、レルズは珍しいな」
「シザー」
「!」
「つーか何があった?」
突っ伏した状態のレルズを見て、状況が飲み込めずに苦笑いで尋ねます。レルズが何か反応するよりも早く、スティンヴが口を開きました。
「悩み事だと。寝ぼけたこと言ってるから、叩き起こしてやれ」
「なっ」
彼の声は、普段の冷めた調子に戻っています。ガバっと体を起こしたレルズにも涼しい顔をして、カチャリとサングラスを押し上げました。
慌ててシザーを見上げたレルズでしたが、シザーは合点がいった風の顔で頷いています。
「ああ、だから最近、やたら張り切ってるように見えたんだな。やっぱ」
「……え? それって、どういう」
「昨日、合同体育あったろ。そんとき、やけにずっとレルズの大声が聞こえると思ってな。や、いつも聞こえてんだけど、それにしても妙に叫びっぱなしだなってさ。空元気っぽく見えたっつーか」
「そ、そんなの、よく気付くっすね? 俺ってマジでわかりやすいのか……」
小声でぼやく彼に、隣でスティンヴが白けた目を向けていました。
シザーが正面まで歩いてきて、レルズの目線と同じ高さにしゃがみ込みます。レルズは少し戸惑った顔をしました。
「よく見てっから、何となく普段と違うのがわかるってだけだ。気分転換になってんならいいが、それも頑張りすぎて潰れんなよ?」
「……シザーさんの言う通りっすね。体動かしてると気が紛れるんで、ちょっと張り切りすぎたかもしれねっす」
「何かあるなら聞くぜ。いつでも俺らに言えよな」
「おい、勝手にぼくを巻き込むな」
「いいじゃんか別に。ホウキレースの後いっつもレルズに愚痴聞いてもらってるだろ? 貸しが溜まってんじゃねーの? つーか、だから今もいてやったんじゃねーのか?」
シザーがニヤリと笑い、スティンヴは一瞬言葉を詰まらせます。
「ぼくは別に、そんなこと……」
「暇さえあれば箒の特訓してるスティンヴが、変だと思ったぜ」
「話聞けよ」
「じゃあ何だよ?」
「それは……こいつの態度に苛ついただけだ」
見られていることに気が付いたスティンヴの手がレルズに伸びてきましたが、今度はうまく体をよじってかわしました。得意気な顔を見せます。
「スティンヴが急に素直になったら、それはそれで気持ち悪くないすか?」
「それもそうだな!」
「人を何だと思ってるんだよ。ぼくはいつだって正直だ」
スティンヴが顔をしかめる隣で、レルズは清々しい笑みを浮かべました。大きく開けた目の中に夕陽の光が映り込み、その煌めきはまるで黒曜石のようでした。
「シザーさんのおかげで、気持ちの整理がついたっす。あざっす!」
「来たばっかで何もしてねーぞ?」
「んなことないっす。へへへ」
シザーは何もわからずに疑問符を浮かべた様子ですけれど、納得したように微笑み返します。
「ぼくには礼の一言も無しか?」
「お前はそういう態度のとこなんだよ。仕方ねー、今度コーラな!?」
「良し」
スティンヴも満足げに頷きます。
レルズはスクッと立ち上がり、今から校舎へ戻ると宣言しました。シザーもスティンヴも、彼が話す以上のことは何も尋ねませんでした。
威勢よく走り去っていくレルズの背に向かって、シザーの明るい声が追いかけてきます。
「よくわかんねーけど、頑張れよ! 大丈夫だ! レルズならうまくいくぜ!」
レルズは足をぴたりと止めました。
さらさらと、髪が風に揺れて頬をくすぐります。少しの間だけ、唇を結んで遠くに目をやりました。
その表情は隠して、いつものように笑ってみせながら振り返ります。
「はい! あざーっす!」
夕焼けの空にも負けないくらいの、眩しい笑顔でした。