86.踊る鍵盤
どこに向かうでもなく校舎をぶらぶらと渡り歩き、次に目に留まったのはお化け屋敷でした。三階の角の奥まった場所にあり、普段は音楽室です。
壁に貼り付けた段ボールに描かれているのは石造りの城壁で、足元には血のように真っ赤な花と墓標もあります。至るところに逆十字のモチーフがあり、黒塗りのコウモリが飛んでいて、ヴァンパイアをテーマにしているようです。
執事のスティンヴがいたカフェと同様に洋館風の飾り付けですが、雰囲気は真逆でした。しかしどちらも細部まで徹底して作られています。最後にどのクラスへ投票するか頭の片隅で考えながら回っていましたが、装飾の面ではこの二ヵ所の屋敷が特に優れていたように私は思いました。
音楽室の防音扉は閉まっていて、丸い窓も暗幕で覆われています。襟を立てた赤いマントの生徒が受付に座っているだけで、今は入場待ちの人がいません。音楽室と中で繋がっている、奥の準備室の扉が出口のようです。
そちらから暗幕をくぐって男子生徒たちが出てきました。彼らは看板を担いで近くに立っていた黒ローブの少年の肩を軽く叩き、口々に感想を伝えていきます。少年は骸骨の被り物ですっぽり頭を覆って、ローブに包まれた体格もよくわかりませんが、背丈は最も小柄でした。
「なかなかだったぜ! ユウヤの悲鳴聞こえたろ?」
「オレじゃねえし! お前のがビビってただろがっ」
「最後のピアノのところ! あそこは妙にガチっぽくてヤバかったなー」
「……へ?」
その恐ろしげな外見とは裏腹に、頭蓋骨の下から洩れ聞こえてきたのは素っ頓狂な声です。
「ピアノ……?」
骸骨頭の少年は去っていく友人たちを見送り、そのまま立ち尽くします。
「今のグループで一旦最後だよな!?」
「ぎゃー!?」
出口から突然ガバっと勢いよく血まみれのゾンビの頭が飛び出し、彼は文字通り飛び上がって絶叫を上げました。
「おおおおお俺を脅かしてどうすんだよ!」
「それどころじゃないんだよーっ!」
「ヤベーんだって! 先生か実行委員呼ぼうぜ!?」
「あの、ど、どうしたの?」
後を追って次々と、中にいたお化け役の生徒たちが出てきました。近付いていき声をかけると、被り物を上にずらしてレルズが顔を見せます。
「ら、らっしゃいっす。俺も何が何だか……」
「……幽霊」
唇を青紫色に塗った女生徒が、真っ青な顔でぼそりと零します。
「幽霊だよ! 絶対おかしいもん! ピアノには誰も何もしてないんだから!」
生徒たちは初めのうちは言いにくそうにしていましたが、その叫びを皮切りに説明をしてくれました。
先の男子生徒たちも話していた、ピアノの仕掛け。
客の手前、予定通りのことのように振る舞ってはいたけれど、彼らはピアノには一切手を加えていないそうです。
それにも拘らず、中にいた生徒たちは全員口を揃えて、不意におどろおどろしい曲調のメロディが教室内に流れ始めたと証言しました。しかも、傍で待機していた生徒は鍵盤がひとりでに動くところまで目撃したそうでした。
「か、確定じゃん!」
「いやでも、遠くからちょっと物押すくらい魔法でもできるよな?」
「それにしちゃ上手すぎだ! ペダルまできっちり動いてたし! 杖であそこまで正確な演奏できないだろっ」
「だいたい普通にやってもあんなに弾ける人、このクラスにいないでしょ!?」
「こんな昼間っから幽霊出るかー?」
「あの噂って本当に……!」
驚かせる側であるはずの彼らはすっかり混乱していて、これでは経営を続行するどころではありません。
事情を把握し、一緒になって私も震え上がっていると、黙って聞いていたネフィリーがおもむろに歩き出して出口に頭を突っ込みました。皆がギョッとして仰け反ります。
暗幕の隙間から覗くと、室内の窓も全て暗幕と段ボールで塞がれていて夜のように暗くなっていますが、足元が見えないほどの真っ暗闇ということはありませんでした。魔法の炎を燃やしたランタンを随所に吊るして、紅色の薄明かりを灯しているようです。
「……これくらいの暗さなら。私が見てくるよ。平気だから」
もぬけの殻となった室内はシンとして、何の物音も聞こえてきません。
返事も待たずに一人で進んでいこうとするネフィリーの後を、ミリーが追いました。慌てて私も付いていきます。
「ワタシも行くよ!」
「えっ、じゃあ、私も……」
「無理しなくていいよ。私一人でも別に」
「ううん、行く! 置いてかないで! し、心配だし!」
何やらごたついていることに周囲も気付き始めて、ザワザワと見物客が集まり出してきていました。戸惑いつつも、教室の外にいたため比較的冷静さを留めているレルズと受付係の二人が事態を収めようと皆をなだめています。
私たちが戻るまでの間だけ来客には待ってもらうように頼んで、出口側から準備室を通り音楽室のグランドピアノを目指しました。
屋敷の庭園を模したような通路を、ネフィリーは迷いのない足取りで先導していきます。平気だというのは事実のようです。私とミリーは彼女の背に隠れるようにして続きます。視界はさほど悪くありませんが、照明によって一面真っ赤なフィルターがかかっているようでした。
今は驚かせる係の生徒がいないとわかってはいるのですけれど、少しでも物陰があると毎回ビクビクしてしまいます。見かねたネフィリーに、しがみつかせてもらうことになりました。
「本当に一人でも大丈夫だったのに」
「ご、ごめんね、邪魔で……」
「あ……そ、そんなつもりじゃ。ごめんなさい」
「も、もし本当に本物のお化けだったらどうするつもりなの……?」
「……どうしよう? 考えてなかった。とりあえず追い払えばいいかなって」
「ええっ……!?」
「あはは、ネフィリー強ーい」
平然と言ってのけるネフィリーに私たちは困惑しました。
ミリーは私ほど強く怯えている様子ではありませんでしたが、少し眉を寄せて険しい表情をしています。夏休みに肝試しをしたときよりも不安げです。それは、あの日の廃坑とは違って学園祭に関連する噂話を知っていたからでしょうか。
以前、私も耳にしたことがある噂。
学園祭のお化け屋敷には、本物の幽霊が寄り付かないようにまじないをかけているかもしれないということ。子供の霊が集まりやすいこと。
もしそれが事実だったとしたら? もしまじないがかかっていなかったとしたら?
この学校に通い始めて一年未満の私でも知っていた話なのですから、ミリーが聞いたことがないはずはなかったでしょう。
「……ピアノかぁ……」
ミリーは視線を正面に据え、時折どこか遠くを見ているようでした。
「……さすがにそろそろ、何か聞こえてきそうな場所だけど」
準備室と音楽室を繋ぐ扉が見えるところまで到達します。
教室の外の賑やかさも音楽室の中には届かず、相変わらず物音はなく、不気味ではありました。
扉は開かれています。
ピアノの音色は聞こえません。
紅のライトを反射して妖しい色合いに染まったグランドピアノが、いつもと変わらない位置に一台ぽつんと置かれていました。
椅子に誰かが座ったような形跡はなく、それどころか、人が使った形跡などないくらい綺麗に片付けられた状態です。
ネフィリーは私をその場に待たせて、スタスタとためらいなく一人でピアノに近付いていきます。鍵盤蓋を開けると、臙脂色の布がきちんとかけてありました。
ミリーも彼女の横からひょこんと頭を出して覗き込みます。
「別に普通だね?」
「うん……何もなさそうだよ」
蓋を閉じ、辺りを回ったり下を覗き込んだりしても、異変は見当たらないようです。
二人に遅れて私も恐る恐る近寄ってみますが、奇妙に感じる点や不可思議なものは特に見つかりません。もちろん、動き出す様子も一切ありません。
ミリーが胸元に手を当て、ふーっと長く息を吐き出しました。張り詰めた肩を下ろし、へにゃっと口元を綻ばせます。
「ドキドキしちゃった」
「よ、良かったー……!」
私は心底安堵して、へたれこみそうになりました。
皆を待たせているからと、早々にネフィリーが踵を返します。もう私も彼女にしがみつくことはせず、早足で追い越していくほどです。
戻る直前、ミリーは首を垂れてひんやりとしたピアノをそっと撫でていました。
「……まさか、ね」
かすかな呟きだけを残し、くるりとミリーも音楽室から立ち去ります。
外で風が吹きました。
夜空のように黒く分厚い布の向こうで、窓ガラスがカタンと小さく音を立てた気がしました。