87.暗闇の記憶
何も起こらなかったこと、誰かがピアノを使用した形跡もなかったことを報告して、安堵する人もいれば釈然としていない人もいたようですけれど、ひとまずお化け屋敷の営業は再開されました。
「ほらな! もう何もないってよ! ……そっ、そんなこと言ったって、あれっきりじゃねーか! 俺も何も聞いてねーし! し、信じねーぞ!?」
嘘じゃないと訴え続けるクラスメイトたちを、レルズは必死に説得しようとしていました。
実行委員として巡回中だったエレナ、彼女に同行していたルベリーとライールの三人が立ち寄った際も、ピアノが勝手に演奏を始めるようなことは起こらなかったという話です。
ごく限られた数分程度、ほんの数人だけが耳にしたというその音色は、時間が経つにつれて人々が話題にすることもなくなり、有耶無耶に消えていきました。
何気なく時計を見ると、私とネフィリーの店番の時間が迫っています。
「もうこんなに経ってたんだ。そろそろ行った方がいいよね」
「わ、本当だ!」
気付いて声をかけてくれたネフィリーに、私は頷きました。ミリーもそれで気が付いた様子です。
「じゃあその間、ワタシはちょっと――」
「ルミナちゃんなのーっ!」
話しながら廊下の角を曲がろうとしていると、それを遮って甲高い声が飛んできました。声と共に、角の階段を駆け降りてきた人影がドンッと飛びついてきます。
「元気してた? アタシのこと覚えてる!?」
「わぷ! パ、パリアンさん!」
「パリアンさんだ! ようこそー!」
「なのー!」
見上げると、バッチリとフルメイクをしたパリアンさんの顔が間近にありました。初めて会った日の彼女と同じ、新緑の香りがします。ライムグリーンの瞳が爛々と輝きました。
パリアンさんは私よりもずっと背が高くてスタイルも良い大人の女性ですけれど、言動はまるで甘えてじゃれつく子犬のようです。ミリーは以前から彼女のことを知っているため笑って迎えていますが、ほぼ面識がないネフィリーはその横でポカンと呆気に取られています。
「毎年来てるんだけど、今年もちょーっとだけ長めの休憩時間にしてお店抜けてきたの! 会えて良かったの~!」
「……確かあなたは、前にパルティナ先生と喧嘩してた……」
「ムムッ。その覚え方はやめてなのっ。フェアスタのパリアンおねーさん、って覚えてほしいの!」
「店長さんだよ。ワタシとも昔から付き合いがあるんだ」
「そ、そうだったんだね」
若干引き気味ですらあるネフィリーですが、パリアンさんは気に留めることなくニコニコと笑いかけていました。
ミリーが斜めに体を傾け、パリアンさんの向こう側に目をやります。
「バレッドさんも来てくれたんだ。意外!」
階段の上から、赤の他人のようにゆっくりとバレッドさんが降りてきているところでした。学園祭への外出でも構わず、よれよれにくたびれたシャツと皺くちゃの長ズボンで黒づくめの格好です。通りすがる人々は彼を避けていきます。
パリアンさんは軽やかにステップを踏んで私から離れると、階段を降りて足を止めたバレッドさんに肩を寄せました。
「アタシたちは一心同体なの! ラブラブなの!」
「ちげぇ」
「んもう! バレッドってば照れ屋さんなの★」
「………」
腕を絡めますが、バレッドさんは無言で反対側に顔を背けます。鼻先まで伸びっぱなしの黒髪に隠れ、顔はほとんど見えていません。
ネフィリーがミリーの後ろに隠れるように身を屈めて、こそこそと小声で尋ねます。
「……もしかして、前にミリーが話してた、記憶を盗むっていう噂の男の人って……」
「あ、うん、そうそう。バレッドさん。ちょっと怖いよね。あの噂が本当かはわかんないけど、でも意外と悪い人じゃないみたいだよ? 多分」
「……この人が……」
眉をひそめ、睨みつけるような目つきです。膝の上で握った拳が少し震えていました。
ミリーがぽてぽてと歩いてバレッドさんへ無防備に近付いていきます。
一瞬ネフィリーが手を伸ばそうとして、彼女を止めかけたように見えました。
「バレッドさん! この前くれたチョコ食べました。美味しかったです、ありがとうございます~」
「………」
「うんうんっ、良かったの!」
「まだいっぱいあるから、今度二人にも持ってくるね」
「え? ……う、うん」
ミリーが笑って振り向きますが、ネフィリーはその場を動かずに上の空で返します。またすぐにバレッドさんへ視線を戻し、微動だにしない彼から目を離そうとしません。
明らかに、彼女はバレッドさんを警戒していました。それは過剰なほどだと思えました。
けれど、かく言う私も、彼の傍に近付くことが怖いと感じていたのです。
何故だったのでしょう?
事実、全身を真っ黒な服に包んだ長身の男性で、ぴくりとも表情を動かさない彼の傍には近寄りがたかったものです。長い前髪から覗く無感情な瞳やたまにしか発しない低い声も、怖い印象の人でした。
仏頂面で不愛想な大人の男性というだけならば、バレッドさん以外にも珍しくありません。しかし、そういった方々と彼とでは明確に感じ方が異なっていました。具体的にどう違って変なのか、と問われると困ってしまうのですけれど。
何もせずただ棒立ちしているだけの人を相手に、得体の知れないものと対峙しているかのような恐怖感を抱いてしまうのは異様であり不可解でした。うまく言い表せないこの感覚は、私の視界にだけ黒い渦や霧が映る「能力」の感覚と少し似ていたように思います。
ネフィリーはどう感じていたのでしょうか。ミリーに群がる人の山にも、本物の心霊現象が起こるかもしれない音楽室にも臆することのなかった彼女は、一体バレッドさんの何を恐れていたのでしょうか。
「……ルミナ、早く行こ。ミリーも」
ネフィリーが後ろからミリーの腕を引いて、二人の前から立ち去ろうとします。パリアンさんは大袈裟に驚きの声を上げました。
「えぇーっ、もう行っちゃうの!?」
「す、すいません、これから当番の時間で。一緒に来ませんか?」
「えーっと……ワタシはもう最初に行ったから、その間ちょっと他の場所見てようかなー」
「でも、一人になったらまたさっきみたいに……」
促すネフィリーに、ミリーは立ち止まって目を泳がせます。二人の様子を見たパリアンさんはコロッと表情を変え、青い星型のペイントがある頬に左手を添えました。
「そういうことなら、ミリーのボディーガードはアタシたちに任せてなのっ」
ミリーとネフィリーから一緒に見上げられると、軽く首を傾げてお姉さんっぽく目を細めます。
「じゃあ、お言葉に甘えていいですか?」
ミリーがホッとした笑顔で答えますが、ネフィリーは不安げに彼女の腕を掴んだままです。納得していない様子で尋ねます。
「本当に平気……?」
「うん、ちょうどいいよ。バレッドさんを盾にすれば、みんな避けていってくれるんじゃないかな?」
「……けど、何だかこの人……」
もう一度、こわごわとバレッドさんへ目線を向けました。
前髪の間で彼の目がギョロッと動き、ネフィリーを捉えます。その眼光に、傍目にもわかるほど身をすくませました。
目を逸らし、引き結んだ唇を小さく震わせながら手を離します。
「……気を付けて」
「大丈夫だよー。また後でね」
バレッドさんはまたふいっと視線を外してしまったようでした。彼は私たちに一言も話しかけてきませんでした。
私とネフィリーがバレッドさんから距離を取っていることに、パリアンさんは気付いていたのだと思います。特に強い怯えを見せていたネフィリーに対して、優しい眼差しでしっとりと諭すように語りかけました。
「心配しないでなの、ネフィリーちゃん。バレッドは優しいの。絶対に悪いことはしないの」
ネフィリーは返事をせず、階段に背を向けて彼らから逃げるように来た道を戻ります。そちらから行くのでは遠回りです。
「あれ? あっちの方が教室は近いんじゃ……」
「ご、ごめん。向こうから行かせて」
呼び止めると、焦りの滲んだ声が返ってきました。体を強張らせて、こちらに振り向く余裕もないようです。
その胸元に黒紫の小さな渦が現れていて、息を飲みました。
渦は静かに、けれど確かに、心臓が鼓動するように大きくなったり小さくなったりを繰り返しています。水色のTシャツの上に黒い絵の具を垂らしたようです。
「ミリーはああ言うけど……あの人、怖くて。近寄りたくない……普通じゃない、と、思う」
震えた声はすぐにすぼんでいきました。
「ごめんなさい、普通じゃないのは私だわ。でも……どうしても……」
「ううん、いいよ、行こっか」
ネフィリーも私と同じで、なぜ彼にそれほどの恐怖を感じているのかわかっていなかったのかもしれません。私は委縮するネフィリーに努めて優しく声をかけ、教室の反対方向へ連れ出していきます。
バレッドさんからすっかり遠ざかると彼女の張り詰めた横顔は落ち着き、胸元に浮かんでいた渦も霧散するようにたちまち消えていきました。
階段を上る途中で、ふと思い出したように口を開きます。
「……そういえば私、名乗ってないと思うんだけど。あの女の人は何で知ってたんだろう」
「ミリーが話したんじゃない? 知り合いみたいだったし」
「変な人たちだったな……」
「せ、せめて面白いって言っとこう?」
ネフィリーはパリアンさんのことも何か怪しんでいたのかもしれませんでした。彼女自身が、というよりも、彼女のバレッドさんへの態度によるものでしょう。それは私も同じで、彼のどこにあれほど惹かれる理由があるのかと不思議に思っていました。
スズライトでの生活の中で、私が彼らと顔を合わせた回数は決して多くありません。特にバレッドさんは、片手で数えられる程度です。それにも関わらず、強い印象を残した二人でした。