番外12.とある日のルベリー
学校の敷地内を、当てもなく彷徨う。
声が聞こえない場所を探していた。
階段の下の空きスペースは身を隠せる場所の一つだけど、人通りがあると隠れていても意味がない。誰かが一人でも傍を通れば、その「声」は勝手に私の中へ流れ込んでくる。大抵は他愛のない呟きがほとんどだが、それがどんな些細な内容であっても耐え難いくらい、今の私はこれまでの心労が積み重なって疲弊しきっていた。
校舎から、中庭へ出る。ここにもぽつぽつと生徒の姿があった。初夏の日差しの下で弁当箱を広げて輪になり、楽しげに談笑している。弁当の他に、お菓子の袋のようなものも置いてあった。夏休み前の定期試験が先日終わったばかりだから、皆浮かれているようだ。
その能天気な顔を見ていると、昏い感情が渦を巻いて沸き出てくる。彼らから目を背け、頬を伝う汗を拭った。
俯いて足早に中庭も通り抜ける。講堂からは中で人がドタドタと走り回っている音がしていた。賑わう食堂にも当然立ち入らない。
どんどん敷地の隅へと逃げ込んで、ついには最奥にある石造りの塔の前にまで来てしまった。
大昔、元々この学校は別の施設だったらしい。この塔は当時の名残の一つで、創世紀時代のものだという古い本が数多く格納されている。けど、校舎の方にも広い図書室があるから、余程目当ての本がない限りこんな奥まで足を運ぶ機会はないと思う。
この塔なら、誰もいないかもしれない。
アーチ型の入り口の扉はほぼいつでも開放されている。中をくぐり、壁沿いの螺旋階段を反時計回りに上がっていった。
この学校に入学して二年目の夏だけど、初めて入る。
石の壁に触れると冷たくて、一定間隔で開いている窓からは柔らかな風が吹き込んでいた。
階段を上り切った先に一つだけ部屋があり、そこは図書室と言うよりも書庫と表現するのが相応しい場所だった。机も椅子も無く、ただひたすらに、棚の中から床の上にまでずらりと本が置かれている。床に縦積みされている書物の中には、人が腰を下ろせそうなほど大きく分厚い物もあった。重い表紙を持ち上げて開いてみると、掠れたインクでページ一面に大きな魔法陣が描かれている。添えられた文字は恐らく古代語で、読めない。古い魔導書のようだ。
私はゆっくりとその魔導書を閉じ、日陰になって薄暗い部屋を歩き回ってみた。物音や人の気配がしなくて、とても静かだ。張り詰めていた心が少しだけ解れるのを感じた。
壁際の棚に並ぶ本の背表紙の題名を眺めるが、そこにも古代語と思しき見慣れない言語が混じっている。読めそうな本を適当に一冊抜き取ってパラパラ捲ってみたものの、びっしりと綴られた内容は難解だ。魔法の授業の参考書とするにはレベルが高いように見えた。
魔術科の成績が優秀なエレナさんなら、こういった本も読めるのだろうか。
友人でもない彼女のことが頭によぎったのは、こんな私にも毎日声をかけてくれるような人だから。
先日も、他のクラスメイトに向けるのと変わらない笑顔で、夏休みに一緒に遊ぼうと私を誘ってきた。それは決して純粋な厚意のみではなく、表に出さない感情もあることが私には聞こえていたけれど。
エレナさんのことは信じられるのかもしれない……と、少なからず感じている。でも、返事をすることができなかった。
問題はそのことだけじゃない。夏休みの過ごし方自体、今も悩んでいる。こんなにも憂鬱な夏は初めてだ。
他人の心の声が勝手に聞こえてくるようになってから初の長期休暇。どこへ出かけるにしても大勢の人で賑わっているだろう。数十人程度の教室の中ですらも耐え難いのだから、それ以上に混雑している場所へ飛び込むなんて自殺行為だ。
帰省についても同じ。両親も弟も優しい人たちだから、話せばきっと相談に乗ってくれるだろう。でも、こんな得体の知れないものをどうすることができる? きっと、ただ心配をかけてしまうだけ。
それに、拒絶される不安と恐怖も拭えない。家族も、他の人々のように笑顔の裏に黒い感情を潜めていたとしたら。厄介事を持ち込んだ私のことを迷惑だと感じられてしまったら。
最後の拠り所にさえも裏切られてしまったら、信じられなくなってしまったら、私はもう、生きていけない。
でも、皆が皆悪意を抱いているのではないと本当はわかっているくせに、そうやって人を疑ってばかりの自分自身のことが何よりも心底嫌いだ。
重い本を抱いたまま、ずるずるとしゃがみ込む。その膝に顔を埋め、深く溜息を吐いた。
具合が悪いのか? と尋ねられたのは、そのとき。
男の子の声だ。
ガバッと顔を上げて振り向くと、背後に細身の男子生徒が立っていた。若干身を引いて、困惑よりも驚きが強く表れている瞳と視線が重なる。
サラサラとした真っ直ぐな銀髪。
隣のクラスのキラくんだった。
直接の面識はないものの、彼のことは知っている。同じクラスになったことはないし、目が合うことすら初めてだと思うけど、噂が「聞こえる」ことは度々あった。勉強も運動もスマートにこなして、そのクールさと中世的で整った顔立ちなどが密かに女の子から人気みたいだ。大々的に騒ぎ立てられてはいないようだけど、二クラスで合同の体育のときなどは特に、女子生徒たちの注目を集めていると知っている。
キラくんには一つ年上のお兄さんがいて、去年少し話題になっていたようだけど、その件については私にはあまりわからない。あの頃はまだ他人の心の声が流れ込んでくることはなく、私自身もその噂に対して強い関心は持っていなかったから。
何も言わない方が感じ悪いか、と先程と同じ声が聞こえてきた。
キラくんの口は開いていない。だから、これは彼の心の中の声なのだろう。
心の声とそうでない本物の声は、音だけでは区別をつけられない。その人の口や目の動き、表情の変化も見て初めて判別できる。最初に聞こえてきた「声」も恐らく彼の心の中での呟きで、口に出してはいなかったのだと思う。キラくんにしてみれば、私が人の気配だけで急に振り向いたように見えたに違いない。
キラくんは徐々に普段通りの冷静な調子を取り戻し、口を開いた。
「……どこか痛いのか」
「い……いえ、大丈夫です。す、すみません……」
「そうか」
言葉少なく、キラくんはそれだけ言って背を向ける。
けど、「声」は変わらず私の中に聞こえていた。
(……いきなり他人にそんなこと聞かれたって、素直に頼れる訳ないよな。何もないようには見えなかったが……でも、本人がああ言ってる以上、しつこいのも……)
彼が少し離れた本棚の方へ移動してからも、「声」は止まない。一部屋に二人しかいないから他に音を遮るものが何もなくて、はっきりと聞き取れてしまう。
(何回も声かけるのは、それこそ迷惑か。……一人になりたくて来てたのかもしれない。だとしたら悪いことをしたな。視界に入らない方がいいか? 別に大した用も無いし、戻った方が……いや、それもどうなんだ。あからさますぎる。自分がいたせいかって、かえって気を悪くさせるかもしれない。具合悪くないのが嘘だってこともあり得る。それなら離れすぎないで、もし何かあっても気付けるところで――……)
本棚に向かって真っすぐ立つキラくんの姿は、私に関心を持っているようには見えない。むしろ近寄り難そうな雰囲気もある。
しかし彼は本を手に取って探す素振りをしながらも、目の前の本棚にほとんど意識を向けていない。実際には私をずっと気にかけてくれていた。
それが心苦しかった。
私なんかに、そんなに気を遣わせてごめんなさい。
勝手に、一方的に盗み聞きしてしまうのを止めることができなくて、本当にごめんなさい。
私がここにいたから迷惑をかけた。余計な心配をかけさせた。全部私のせいだ。
でも、臆面もなく正直にそう告げられるはずがなくて、彼の方を見ることもできない。
私は教室へ帰ろうとした。抱えたままだった本を戻そうと焦っていきなり立ち上がったせいで、軽い立ち眩みに襲われる。
もしかしたら、よろめいたところを彼には見られていたのかもしれない。
(ソラ兄だったら、こんなとき……)
キラくんが息を飲む気配がした後、硬い声の呟きが聞こえた。
「おい。無理するな」
続けて聞こえてきた声は、明確に私へ向けて発せられた言葉だとわかった。さっきより声量も大きい。
キラくんが眉を寄せて私に近付いてくる。
「授業にはまだ時間あるし、保健室までオレも――」
「いえ、だっ、大丈夫……! ごめ、ごめんなさい……!」
「………」
「……あ、その……」
思わず過剰な拒絶になってしまい、慌てて声をすぼめた。キラくんは驚いた様子で少しの間動きを止めていたが、ふっと顔を背けると息を吐いた。
(……うまくいかないのは……愛想の差か……)
それは傍目には、私のおどおどした態度に呆れた溜息のように見える。でもその「声」が表していたのは、自身へ向けた落胆だった。
「あの……」
「悪かった。……ちょっと手出せ」
「え……?」
(……まだあったよな)
キラくんが、ズボンのポケットからガサガサと何かを取り出す。私の手のひらの上に置かれたのは、透明な包み紙にくるまれた淡い桃色の飴玉だった。
キラくんと可愛らしいお菓子のイメージが私の中で結びつかず、戸惑いを隠せない。目を白黒させて口ごもる私に、キラくんがぽつりと言った。
「……別に、ただの余り物だ。いらなかったら他の奴に譲っていいから」
言い終えるや否や、私の返答を待たずにつかつかと元いた場所へ引き返していく。
(……今のは、変だ。変だった……)
これ以上聞いてしまわないように、私も早々に外へ出た。
階段を下りながら少し思いを巡らせる。思考に伴って、足の動きはだんだんと遅くなっていった。
私が言えたことではないものの、キラくんの言動は決して和やかではなく冷たい印象を与えるものだったと思う。
だけど、その心情はずっと優しくて温かかった。
それに気付くことができた理由は……「声」が聞こえたから。
この力があったから。
改めて考えるまでもない、疑いようのない事実。
階段を下り切って外に出る。中庭の光景に大きな変わりはなく、太陽の光が眩く照り付けていた。
振り返って、石の塔と青空を見上げる。
私の胸の中にはある一つの思いが芽生えていた。
まだ迷う部分も大きい。怖い気持ちと、このままでいたくない気持ちが同じくらいの強さでせめぎ合っている。
でも、キラくんの心に少し触れたことで、前に進むための一握りの勇気を貰えたような気がした。
『夏休みに、他のクラスの友達中心で集まって遊ぶ予定を立ててるのよ。それで、もしよかったらルベリーにも来てほしい、って思ったの。あっ、途中参加でも全然オッケーよ。どう?』
(来てほしい……けど、無理強いは駄目。強制しないように。怯えさせないように……わたしは今ちゃんと笑えてるかしら……)
エレナさんのあの思いを信じられたら、私はその先で何かを得ることができるだろうか。
他人の心の声がとめどなく聞こえてしまう私。そんな私が、人の傍にいていいはずがない。
でも。だけど。
日差しの眩しさに目を細め、手のひらを開き、握ったままだった飴玉の包みを開く。
コロンとした丸い飴玉を口に含んだ。
じんわりと広がるその甘みが、仄かに心を癒していく。
私は口の中でそっと飴玉を転がしながら、校舎に続く中庭へと歩み寄っていった。