創作小説公開場所:concerto

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[執筆状況](2023年12月)

次回更新*「暇を持て余す妖精たちの」第5話…2024年上旬予定。

110話までの内容で書籍作成予定。編集作業中。(2023年5月~)

番外14.あの日のマリ ~無知な少女~

 娘の旅立ちは、胸に思い描いていたそのときよりもずっと早くに訪れました。

 ザルドの森を抜けて、緩やかな坂を道なりに東へ下った先に、ウィードリードという町があります。王都ヴィオリダのような華々しさや国内最大規模の港町イリンレのような美麗さはないけれど、牧歌的なレンガの街並みと豊かな自然に彩られた素敵な町です。

 私の娘は今日、ここの港から船に乗って国外へ旅立っていきます。

「お母さん! 港ってあっちだよね!」

 駅を出る前から既に、娘はそわそわと落ち着きのない様子でした。町に到着すると跳ねるような足取りで先に行き、道の遠くを指差します。夫の髪質と私の髪色をそれぞれ引き継いだ、外に跳ねた金色のショートカットが春の日差しを浴びてキラキラと光りました。

「ルミナ待って、そっちはお父さんの造船所よ。船着き場は向こう。それに、先にお昼を食べてからって話でしょ」

「あっ、うん、そうだった!」

 一人駆け出そうとする娘を呼び止めて、家の近くには無いお洒落なテラス付きのレストランへ向かいました。窓辺の小さなプランターに植えられた草花が風に揺られ手を振っているようです。

 娘は隣国のスズライトで魔法について学べる日を心待ちにしていました。今朝もいつもならまだ寝ている時間に起き、夫の出勤に付いていきたがっていたほどです。

 当初の予定では昼食を採ってからヴィードリード行きの機関車に乗るはずでしたが、娘が居ても立っても居られない様子で早く行きたいと言うので一時間半も早い便で来ています。笑顔の絶えない娘に、私は胸の内で吹きすさぶ寂しさを悟られないよう努めて微笑みかけていました。

 デザートセット付きのランチを食べ終えて、賑わう港へ足を踏み入れます。新学期前の休暇期間を満喫している若者たちの姿が多く見られました。

 ラグライドとスズライトでは、一年を十二ヶ月とする暦は同じですが新年度の始まりが異なっています。スズライトの方が一月早く、また、学校へ通わせる年齢にも違いがあり、スズライトの子供の方が一年早く通学を始めます。

 スズライト魔法学校へ編入するための資料を取り寄せたときになってようやく、私はその差を思い出しました。

 スズライトは私の生まれ故郷であり、娘が通うこととなる全寮制の学び舎もまた、私の母校です。

 その名を見て、今のラグライドの家へ嫁いできたときに蓋をした数々の思い出が蘇りました。あの学校に通っていた頃、私はまだ今の娘のように純真に、真っ直ぐに、優れた魔導士を志していたのです。何にも気付かず、何も知らずに過ごしていたあの日々の思い出は、今も柔らかな光を湛えて私の胸の中に眠っています。

 ですが、王立魔導学校に進学して研究を進めていく内に、私は一つの仮説に気付きました。自分が手に入れたと信じていた力など存在しなかったのだと知りました。

 全ては人ならざる者の手のひらの上。それを認めなかった学会も、認めた上でそれを享受する両親たちも私には受け入れられず、そのときスズライトという国に私の居るべき場所はないのだと悟ったのです。

 私は否定の言葉から逃げ出し、母国スズライトを見限りました。あれから十数年もの時が流れました。

 そんな私の一人娘が魔術に興味を持ちあの国で学びたいと言い出すなど、一体何の因果なのでしょう。

 娘を送り出すのは複雑な気持ちでした。しかし、親の私情で子の考えを否定することも断じてしたくなかったのです。

 夫が私の心境を慮ってくれていたことは幸いであり、大いに支えられました。ただ、夫は私とはまた異なった意味で娘の留学を不安がり、気が気でない様子でした。

『スズライトに行くなんて、思い切ったことを考えたよなあ……』

『あなたったら、何度目? ルミナだっていつまでも子供じゃないのよ。やりたいことがあっていいじゃない』

『うん……そうなんだけどね……スズライトの魔術は立派なものだし……。ああでも、船を降りてから学校まで、一人でちゃんと着けるだろうか……? 仕事さえなければ僕が行けるのに……』

 その呟きに、胸の奥で罪悪感がちくりと痛みます。勿論夫は純粋に娘が心配なのであり、他意はなかったのでしょうけど。

 ですが、夫が何と言おうと、私は海の先まで娘に付き添うつもりはありませんでした。

『……ほとんど平原で複雑な道じゃないもの。地図もあれば、大丈夫よ』

 学生時代の記憶を頼りに手書きで地図を作りながら、私は夫の顔を見ないようにしていました。

 

 停泊している白い船の中に、一回り大きな客船があります。あれがスズライト行きの便のようで、予定より早く港へ着きましたが問題なく乗船することはできそうです。

 暮らしに必要な生活用品の類は事前に向こうへ送り届けてありますので、娘の手荷物は全くありません。私はその手に子供料金の乗船券一枚と地図を持たせました。

「ちゃんと着いたら連絡するのを忘れないでね?」

「うん、わかってる! ちゃんと手紙書くし、夏休みにも帰って来るよ!」

 娘は明るく船に乗り込んでいきました。新天地での日々に心配事などない様子であり、純真に育ってくれたことは喜ぶべきなのですけれど、かえってこちらが少々心配です。私が寮に入って初めて一人暮らしを始めることになったときは、もう少し緊張で硬くなっていたものでした。

 出航の笛の音が響き、船がゆっくりと動き始めて、静かだった水面に波が広がります。

 船の姿が小さくなって地平線の彼方へすっかり見えなくなるまで、私は見送り続けました。船の通った跡が弱く揺らめき、そして元の静けさへと戻っていきます。高い空から注ぐ日差しで煌めいた海は、船が進む先を祝福するように美しい光景でした。

 母親として不安はあるけれど、恐らく案じることはないのでしょう。

 推測ですが、今朝の夫の様子がそれを物語っています。

 娘を単身スズライト行きの船へ乗せることに渋っていた夫が、ある日を境にぱったりと不安げな素振りを見せなくなっていました。それから、彼は私の目を盗んでどこかに手紙を送っていたようでした。これは彼の長所でもありますが、私の夫は隠し事があまり上手ではないのです。

 あの人の行動が何を意味するのか、私には何となく察しがついていました。その上で、彼の優しい企みに気付いていないフリをしました。たとえ何の意味もない振る舞いだとしても、私は自身の意地とプライドのためにそうせざるを得ませんでした。

 ウィードリードまで来たついでに、と、私は市場で夕飯の食材を購入しました。そして一通りの買い物を済ませた後、最後にもう一度海を眺めてから帰ろうと思い港の前に立ち寄りました。

 そこに、夫が現れました。

「あ、あれ? マリさん一人なのかい? ルミナは……?」

「あら? あなた。まだ仕事よね?」

「今だけ抜けてきたんだ、せめて見送りはしたくて。三十六分の便だろう」

 夫は仕事場の作業着姿で、走ってきたらしく息が上がっています。娘の姿を探す夫に経緯を説明すると、みるみるうちに落胆と焦燥を露わにしました。

「そ……そうなんだ……そうか……」

 単純な寂しさから来る感情にしては焦りが色濃く見えました。

 私が訳を尋ねると目を泳がせて、ぽつぽつと白状し始めます。

「……君は大丈夫と言うけど、一人で行かせるのはやっぱり心配だったから。どの船で着くのか教えて、迎えを頼んでいたんだ……」

 誰に? と、聞くまでもありませんでした。夫がスズライトで頼れる人物の心当たりなど、一つしかないのですから。

「……お義父さんたちに」

「そんなところだと思っていたわよ」

「バ、バレてたのか……」

 溜め息交じりに言うと、夫は本当に意外だったようで目を丸くしました。

「あなたはわかりやすいもの。そう……でも、二人にルミナを会わせたことは……」

「ないけど、でもお義父さんたちならわかるはずだよ。ルミナは君と顔がよく似ているから」

 優しい声と表情で、夫は穏やかにそう言いました。

 しかしそれも束の間、またすぐに不安を口にして、肩を落とし踏ん切りがつかない様子で職場へ戻ったのでした。

 どこかで汽笛が鳴り、また船が一隻港を出ていきます。

 十数年もの間、私は両親と連絡を取っていません。私がスズライトの土地に足を踏み入れることはもう二度とないのです。

 夫は、二人に何と書いて伝えたのでしょうか。

 二人は、夫の手紙に何と答えたのでしょうか。

 

 娘から手紙が届いたのは、翌々日。スズライトには転移魔術を用いた郵便システムがありますので発送後にすぐ届くのが普通なのですが、国外への郵便物には対応できなかったようです。封筒に捺された印字は、引っ越し日の翌朝を示していました。

 「お父さん、お母さんへ」から書き始められたその手紙には、祖父母に関する記載は一言もありません。しかし学生寮へは何事もなく無事に辿り着けたことが窺える内容で、夫は心底安心していました。

 同時にもう一通届いていましたが、そちらの宛名は夫の名のみ記されています。夫は私の前では封を開かずにそのまま懐へ仕舞いました。私はまた何も気付いていないフリで、娘の手紙に意識を向けさせました。

「ね、心配いらなかったでしょう」

「そうだね。……もしかしたら、妖精が見守っていてくれたのかもしれない」

 夫は少し躊躇いながらも、その言葉を口にしました。

 私が返事に詰まると、眉を下げて微笑みます。

「君がこういう言い方を良く思わないのも、その理由も、わかってるつもりだけどね。それでも、僕は信じてみたいんだよ」

 隠し事や嘘が上手ではない、純真な人。私の同意は得られないと想像できていたのだとしても、口に出さずにはいられなかったのでしょう。

「ルミナはあなたに似たわね」

 きっと私も、彼と同じ表情をしていたのだと思います。

 職場へ向かう夫を玄関先から見送った後、一人になった家の中で、私は改めて娘の手紙を読み返しました。そうしたところで、心の中の曖昧な感情が晴れることはないのでした。