01.遊び
かつて世界は一度壊れた。
ある一つの文明が滅び、人の世は根底から覆された。
だが世界は、その理を作り変えられて息を吹き返した。
新たな理を生み出した者たちは、ある者は始祖の大魔導士として後世へ長く語り継がれ、ある者たちは始まりの三賢者として星になり、ある者たちは時の流れと共に人々の記憶から忘れ去られていった。
滅んだ文明。再構築された理。存在した証が途絶えて歴史の闇に消えた数多の人間たち。
これらは記録が残っておらず、事実を知る者はいない。
悠久の時を過ごし続ける彼らを除いては。
崩壊と再誕から幾千年の月日が流れ、現在。
彼らはスズライトと呼ばれる土地に棲んでいた。
あたたかな月の光が暗い室内を照らしている。
満月が最も美しく輝く秋の晩、人間が寝静まった商店街。その一角の喫茶店に彼らは集う。シンとしたフロア内に、スズムシの羽音だけがかすかに聞こえていた。
並べられたカフェテーブルにもカウンター席にも人影はなく、月明かりが差し込む窓辺の隅にだけ六色の光が輪を作っている。
窓枠の最も近くに、桃色。そこから時計回りに橙、赤、黄緑、黒紫、青と並ぶ。光の中にはそれぞれ小人らしき影が浮いていた。
桃色の光がスッと高く浮かび上がる。光に包まれた小人は少女の容姿で、光と同じ色をしたボリューミーなロングウェーブの髪が波打っていた。ゼリーのように透明感のある瞳を細め、優雅に小首を傾げる。
「定例会を始めますわね。何か報告はありまして?」
「はいはーい、アタシから~♪」
黄緑色の光が正面でチカチカとまたたいた。中の小人は元気に挙手をしており、くるりと巻かれたポニーテールが左右に揺れる。
「はい、メヌエット」
「こないだのスズライト校のお祭りのことなの! 今回はかなり楽しかったのっ、ミリーが立派だったの~! ミリーはみんなの人気者だからずっとお友達に囲まれててね、アタシとおしゃべりはできなかったけど。でもでも、毎日いーっぱい練習頑張ってたの知ってるから、お歌のとき泣きそうになっちゃったの。あとねあとね――」
「黙って、もう結構よ。ここはあなたの個人的な感想を喋る場ではないと注意しなくてよくなる日は、いつになったら来るのかしら」
話を遮ると共に、水色の光が一際鋭く発光した。小人はサラリとしたショートカットを掻き上げて、小さな口から刺々しい言葉を放つ。
「それは別に必要のない情報でしょう。あなたはいつもいつも遊んでばかりね」
「セレナーデうるさい! アタシちゃんとやってるの! うーっ、こんな性悪女が担任の先生なんてミリーが可哀想なのっ」
「いつまで経ってもろくな知能がないあなたには言われたくないわ。せいぜい反面教師にはならないでちょうだい」
「ほんっとアンタはいちいちイヤミなの! そんな言い方しかできないの!? 大ッキライなの!」
「ええなあ、ミリーちゃんライブ。ウチも行きたかったー」
火花を散らす二色の向かい側から、赤色の光がマイペースな調子で割って入った。小人は内巻きのショートボブで、右耳の上に小さなサイドテールを作っている。メヌエットとセレナーデはほぼ同時に顔を背けて言い争いをやめた。
女性型の四人は、スカートの付いたレオタードのような格好で揃っている。ぼたついている大きめのアームカバーに腕のほとんどが包まれていて、人間に比べて細すぎる身体を一層華奢に見せていた。
「ボレロは学園祭の日どちらに?」
「同じとこにばっかし集まるわけにもいかへんし、海の辺りをぶらついとったなあ。なーんもあらへんよ。他の日もだいたいそんな感じやで。っちゅーか今のウチはどっちかってーと話を聞く側なんやけど? ラプソティーさんは何かあらへんの?」
話を振られ、桃色の柔らかな光を帯びたラプソティーはおっとりと答える。
「わたくしですか? 世は事もなし、ですわね」
「言うと思たわ。聞いたのウチやけど。平和なんはええことなんやけど、待機しっぱなしなんもそろそろ飽きてきたなあ」
「ふふ……心中お察しいたしますわ。けれど、こればかりは順番ですもの。有事に備えて控える者の存在も大事ですわよ」
「”次”にやりたい役柄はあるんですか?」
橙色の光が月明かりの照り返しを受けて控えめな輝きを見せた。中の小人は少年のようで、人間が使うのと同様の丸眼鏡を顔に掛けている。
彼の服装は四人と違い、一枚の白い布を身に纏った装いだ。襷のように肩から掛けて腰で結んでいる帯は、彼の光と同じ色をしていた。
「”前”は男やったから”次”は女がええけど……んー、まあでも今はそんだけやろか。仲良うなりたい子も特には見つかってへんし」
「ああ、そうでした。ボレロはそういう周期でしたね」
「何年の付き合いやと思っとんねん、ええ加減覚えんかい! ホンマにアンタは適当やな!」
「皆が僕と違ってしっかりしているものですから、ついつい」
「へいへい、どーも。あ、男の方が都合ええっちゅーんなら別に連続でも男やったるで。せやから、ウチの助けが必要んなったら早よ教えてな!」
「ええ、頼りにしていましてよ」
「うぅーん、ボレロは変わってるの。アタシはアタシのままがいいの~。レクイエムだっていつも男の子なの」
「………」
黒混じりの深紫色の光がぼんやりと明滅を繰り返した。顔のほとんどが黒髪に覆われていて、その表情を窺い知ることはできない。
彼の容姿には、他の五人にはない彼だけの特徴が複数見られた。もう一人の男性型と同系統の衣服を身につけているが、彼の左手首には手枷がぶら下がっている。ただ、途中で鎖が切れており手錠としては機能していない。黒が混ざった鈍い光を帯びているのも彼一人だ。
また、五人の背には半透明の羽が四枚付いているが彼には二枚しかない。何よりも、形が明確に違っていた。楕円形の五人に対して彼の羽はコウモリのシルエットに近い。翼竜か、悪魔にも似ていた。
レクイエムと呼ばれた彼は、非常に無口だった。自分が話しかけられても周囲がどれだけ騒ごうとも、言葉を発することがない。
「あなたたちは性別以前の話でしょう。特にレクイエムは論外だわ。いい加減に態度を改める気はないの?」
「………」
「……メヌエットも。近い周期で人間と接することもあるのだから、少しは人格を演じることを覚えなさい」
「アンタに命令されたくないのっ。レクイエム~、セレナーデがいじめるの~」
「………」
「毎回セレナーデはマメですよね。まあ、レクイエムはまた別問題ですが、常に自然体のメヌエットも僕は好ましいと思いますよ」
「あなたはどっちの味方なのよ」
「おお、怖い怖い。敵も味方も何もないではありませんか」
「真面目なのはセレナーデの美点ですけれど、そこまで神経質にならずともよろしくてよ? 不審に思われることがあろうと、認識阻害でも記憶操作でもいくらでもやりようはありますもの。違くて?」
「ラプソティーまでそんなことを……」
「諦めや。こういう人やんか」
げんなりするセレナーデと微笑むラプソティーの間に、ボレロはするりと場所を移した。青と赤の羽が重なり、薄紫色を作り出す。その横でレクイエムにぴたりとくっついていたメヌエットはフフンと得意げな笑みを浮かべた。レクイエムは誰にも何の反応も示していなかった。
「まだ学校の話はあまり詳しく聞けていませんわね。他の日ではいかがでした?」
「アタシの知ってる子はみんな元気なの! ただ、でも……ミリーのお友達のクレアちゃんが、ちょっと前に倒れちゃったの。今はウェルシィに入院してお休みしてるけど、心配なの……あの病気は……」
「ちょっと、尋ねられているのはあなたではなく私たちよ。というか、それを報告するなら学園祭より先に話すべきでしょう。相変わらず馬鹿ね」
ラプソティーは話の軌道を元に戻そうと試みていたが、またしてもメヌエットとセレナーデの衝突が始まり苦笑いを禁じ得なかった。セレナーデの小言は続く。
「メヌエットの話には主観が入りすぎだわ。日々の様子を見るに、彼女たちはそこまで気を回さなくても問題ない範疇。それよりも監視すべきなのは、やはり――」
「うっわ、ヤな言い方なの。自分とこの生徒を監視なんてヒドイの、怖い先生なのー」
「話が進まないから黙っててくれないかしら!?」
レクイエムにしだれかかったまま煽るメヌエットに、ついにセレナーデが声を荒げる。猫が毛を逆立たせるように、水色の光の輪郭がブワッと膨らんだ。ボレロは呆れて頭を掻いたが、二人の間に挟まれているレクイエムは尚も無反応であった。
ラプソティーの右隣から橙の光が回り込んできて、困り眉で笑いかけながら申し出る。
「僕が話しましょうか」
「お願いしますわ」
「セレナーデが言おうとしたのは、ソラの件ですよね?」
「……ええ」
不服そうな顔をしながらもセレナーデは低い声で答えて頷いた。彼が代わりにラプソティーへ語り始めると、深く溜息をつく。ボレロが一言声をかけた。
「同じこと何百回やるねん。よう飽きひんなあ」
「私に言わないで」
セレナーデは唇を尖らせ、第三者のボレロにも苛立ちを隠そうとしない。だがボレロが気分を害した様子はなかった。
報告を聞き終えたラプソティーが感想を述べる。
「――つまりは、ひとまず彼の身には何事もなかったという結論でよろしい?」
「要約すればそうなるでしょうか。とはいえ、ソラには引き続き気を配っておくべきとは思います。皆も知っていてください。もし何かあればレクイエムの力も借りることになりますからね」
「……めんどくせ」
初めてレクイエムが返答をした。しかし、たったそれだけぼそりと言った後はまた口を閉ざした。先端の尖った羽が気だるげにゆっくりと上下する。ボレロはそれを視界の隅に捉えて僅かに眉を寄せた。彼女はレクイエムに近付きたくなさそうにしていたようだった。
「わかりましたわ。プレリュード、他に貴方個人からは何かございまして?」
ラプソティーの問いかけに、ニコリと笑顔を返す。
「いいえ。僕の生徒たちは平和そのものですよ」
プレリュードは終始自分のペースを乱さなかった。
窓の向こうで、星空の端が徐々に白んでいく。夜明けが近い。
「では、今日の定例会はここまでとします。お時間をいただいて感謝いたしますわ」
淡々とラプソティーが締めて、場は解散となった。
「次もおもろい話よろしゅう~」
「早く帰ろっ、レクイエム♪」
「………」
真っ先に消えたのはレクイエムの黒紫だ。メヌエットの黄緑がその後を追い、次いでボレロの赤。少し遅れてプレリュードの橙とセレナーデの青が同時に消え、ラプソティーの桃色だけが残った。
ラプソティーは一人、窓に振り向き満月を見上げた。無数の星に囲まれた満月が瞳の中で瞬く。彼女のその姿は、窓に映っていなかった。
妖精たちが世界に生まれ落ちて、およそ千年が経つ。
いつ誰に名を与えられ、どのようにして自我が芽生えたのか、彼ら自身も理解していない。しかしそれに疑問を抱くこともない。寿命や死という概念に捉われない彼らは、長年を過ごすうちに自己への頓着すら希薄になっていった。
妖精たちにとって、この世とは劇場である。
彼らが望むのは、舞台の共演者であること。
それはすなわち、人間と共にあること。
世界という名の舞台の上で、人間の真似事を演じながら、妖精たちは終わらない劇を繰り返している。
彼らの本能には、人間を愛し守護すべきであるという意思が刻み込まれていた。
かつての文明の崩壊の日に居合わせた妖精は、ただ一人。それは六人の誰でもないが、その無念と痛みの記憶だけが彼らには継承されている。無意識化に刷り込まれたとも言えるほどに、妖精たちの心の深くに根付いている。
元々妖精たちが「劇」を始めたのは、人間と人間の築いた文明が二度目の惨劇に苛まれぬよう守るためだった。
しかし、ここ数百年は平穏な日々が続いている。平和を脅かす一大事の起きることがなくなった今、妖精の加護はもはや不要となっていた。
妖精たちにはただ悠久の時が与えられた。
次第に妖精たちの「劇」の目的は変化し、人間の傍で人間と共に暮らすこと自体に意味が見出されていく。滅びなどそう何度も訪れはしないと、徐々に楽観的な思想へと傾いていく。
義務を見失った者たちは、遊び始めたのだ。
これは暇を持て余した妖精たちの、長い遊戯の記録。