108.絡みゆく糸(1)
この後に後夜祭が控えていたためか、校内の片付けはサクサクと滞りなく進んでいきます。
学園祭の形跡がなくなっていく校舎を見ていくうちに、私は少々感傷的な気分になりました。段ボールの看板を片付けに運んでいる間も、どことなく切ない気持ちでした。
廊下にはほとんど人通りがありません。壁のチラシやポスターは剥がされ、カラフルな画用紙や風船などの装飾も既にあらかた撤去されています。普段であれば下校時間間際の時刻で、窓の向こうの空は薄暗くなりつつありました。誰の姿もない、照明の消えた教室が何ヵ所か見られます。
「何か寂しいね」
「元に戻っただけだろ」
「そ、そうなんだけど」
「……まあ、わからなくもないが」
静けさに耐えかねて、運ぶのを手伝ってくれていたキラに話しかけましたが、素っ気ない返事ですぐに会話が途切れました。いつも通りのキラではあるのですが、無言の時間の空気が少し重く感じられました。
この段ボールを置き終われば、私たちのクラスの掃除もほとんど終わりです。私はこの後そのまま後夜祭へ向かうつもりでしたが、キラがどうするのかは聞いていませんでした。
一緒に片付けをしながらも、彼とはあまり話をできていません。その原因は、昼に一瞬だけ見えた黒い霧のことに他なりませんでした。
今日一日、あの瞬間以外にキラから異変は感じなかったけれど、だからこそその理由が私はずっと不可解でした。しかしその一方で、気になるのなら後で説明すると彼自身は言っていたけれど、話を切り出すことにも躊躇していました。
そうして私の口数が少なくなっているのは、キラから見れば「気になっている」と口にしているも同然のことだったのでしょう。キラは私の心の内を容易く見抜いて指摘し、店番を代わる直前に起きていた出来事について説明を始めました。
「お前は本当にわかりやすいな」
「ご、ごめん……」
「別に怒ってない。……今日、昼前に三年の教室の前通ったとき、顔見知りの先輩に声かけられてな。去年兄貴と同じクラスだった人なんだ。進級してからは会ってなかったんだが、向こうもオレを覚えてたらしい」
「お兄さんの……。えと、そ、それで……?」
「それで、終わり」
「えっ」
身構えていた私は話の短さに拍子抜けし、思わず声を洩らして振り向きました。キラが溜息を吐きます。
「言っただろ、大したことじゃないって」
「でも、なら何でそれだけで……?」
「……兄貴のことを考えると、訳がわからないんだ。それでモヤモヤしてるのがルミナの目に見えたんだろうな」
何を考えていたのか、キラは具体的には言いませんでした。しかし、心配をかけまいと感情を抑えているような彼の表情を見るとそれ以上詳しく尋ねることはできませんでした。
代わりにキラが語ったのは、私がまだスズライトにいなかった一年前の思い出です。
「あの先輩と初めて話したのは、ちょうど去年の学園祭だった。兄貴がオレたちの教室まで連れて来たんだ。前の日にわざわざオレが店番してる時間帯を確認してきたから来るのはわかってたが、他にも何人か友達連れて、誰も頼んでないのにオレのことを紹介しまくって……」
「お兄さんと仲良しなんだね」
「……向こうが弟離れしてないだけ。こっちはいい迷惑だ」
キラの話を聞いて、私は昨年の皆のクラスの様子を思い浮かべます。ぼんやりとした想像の中で、キラのお兄さんの姿は優しげな笑顔のゼクスさんになりました。
窓の前を通り過ぎて廊下の角を曲がり、周囲の暗さが少し深まります。
「それに、今はどうだか……」
「え?」
「……兄貴は不慮の事故や事件に巻き込まれて行方不明になったんじゃない。多分計画的に、初めから自分の意志で出ていった。オレに何も言わないで、黙っていなくなったんだ」
「えっ、そ、そうなの!? でも前はそんなこと一言も……」
昼のキラに感じた黒い霧の原因よりも、この話の方が私には強い衝撃でした。
キラのお兄さんは、昨年の冬から行方がわからなくなっています。私がそれを知ったのはほんのひと月ほど前の夏休みでのことです。
一つ年上の、ソラ先輩。箒による飛行技術と速さを競うホウキレースに出場していたゼクスさんが、キラのお兄さんの彼によく似ているということ。それについて確かめたいことがある、とキラが話していたのを私は聞いていました。
「はっきり証拠があるわけじゃない。ただ、行方不明になった直後、兄貴の部屋にはあるはずの物が全然無かったんだ。箒も、鞄も、教科書もノートも、服も、食べ物も……何も」
キラは段ボールを握る手に力を込めて目を伏せます。
事件当時、一週間もの間お兄さんが学生寮の自室へ戻っていなかったとキラが知ったのは、その週明けを過ぎてからのことだったそうです。
お兄さんの部屋は捜査のため立ち入り禁止にされていました。しかしキラは、兄弟の自分には関係があるからと潜入しました。そこで目にしたのが、もぬけの殻となった室内だったのです。
各部屋に備え付けの家具や閉め切られたブラインドカーテン、机とベッドの下に敷かれた絨毯などはそのままです。しかし、それ以外のものが何もありませんでした。クローゼット、机の上、引き出しや棚の中、全てが空っぽでした。
「今でも覚えてる。あれは、兄貴が自分で片付けたとしか思えない状態だった。……爺さんには取り合ってもらえなかったけどな」
キラのお爺さんは、私たちの学校の校長先生です。捜査の状況や結果などに関してはキラよりも詳しく聞いているのでしょう。
「爺さんの言ってることもわかるんだ。今日、先輩と話してますますそう思った。兄貴が出ていく理由がわからない……もしあいつが兄貴本人なんだとしたら、戻ってこないのも……」
話しながらキラの声はすぼみ、その体の周囲にじわりと黒霧が滲みました。勢いは弱く、大きく広がることもなく、すぐに宙へ溶けて消えていきます。しかし、私はそれをどうすることもできませんでした。
廊下の突き当たりに到着し、私たちは足を止めました。様々な出し物で使われた看板や張りぼての背景などが既に乱雑に立て掛けられています。キラは運んできた段ボールを私の分も引き取って置きました。俯きがちで、上に添えていた手をぐっと握り締めます。
「……今年は、ソラ兄にとって最後の学園祭だったのに」
「キラ……」
「勘違いするなよ。オレは別にあいつのことなんてどうでもいい。ただ、腹立ってるだけ。お喋りのくせに大事なことは何も教えないで、自分勝手でイラつくんだ」
そう話すキラの目の奥に見えたのは確かに、以前スズライト家の屋敷で見せたものと同じ怒りの感情でした。けれど怒りの一言で済ませるには痛ましく、苦しげであるように私は感じました。それもあの日と同じでした。
私たちの他に生徒の姿はなく、段ボールの擦れる音が消えると辺りはシンとしました。険しい顔のままキラが口を開きます。
「あの馬鹿兄貴のことはルミナが気にすることじゃない。オレらの問題だから、ほっといていい」
「でも」
「気遣われたくないんだ」
私を遮り、少し強い言い方で制しました。彼自身もそれほどきつく言うつもりではなかったのかもしれません。目を大きく開き、自分に驚いた様子でした。
サッと眉を寄せ伏し目になると、顔を背けます。
「……悪い。先に戻る」
私の返事を待たずに、キラは一人で廊下の暗がりに消えていってしまいました。