04.恋路(2)
自席で書類仕事をしているギアーの元へ、つかつかと一直線に迫る。受け持つ学年も科目も違うこともあり、就業中にパルティナがギアーに接近することは少ない。険しい表情でやってきたパルティナを、ギアーは物珍しげに見上げた。
「どうしました、これから一年生の会議なのでは? ……何だか、怒ってらっしゃいます?」
「会議にはまだ時間があります。それより、どうも妙な噂を耳にしたものですから、ギアー先生に心当たりはないかと思って。私とあなたの関係について、生徒たちが好きに想像を膨らませているようなのだけど」
「と、言うと」
ギアーは椅子を回して体の正面をパルティナに向けた。眼鏡のつるに手を添え、とぼけた顔をする。
「口にすることすらつまらないような、根も葉もないことばかりですよ。……その、私たちを、恋仲だということにして、勝手なことを。詳しく聞いてみれば、あなたが私を慕っていることになっているそうですが」
「ああ、どうやらそのようですね」
「知っているのなら、なぜ止めさせないのです?」
「止めさせる必要がありますか? ご自身のイメージアップを図るのに都合がいいじゃありませんか」
ギアーはけろりと言いのけて笑った。
「僕としては、むしろ好都合だと思いますが」
「他人事のように言わないでちょうだい」
マイペースを崩さないギアーと対照的に、パルティナは少しずつヒートアップしていく。
ちらちらと周囲の視線を感じて、僅かに熱が引き冷静になった。見れば、席近くの教師も、素知らぬ顔で手作業をしつつ聞き耳をそばだてているような雰囲気を纏わせていた。
パルティナは咳払いをした。ギアーは意に介した様子もなくにこやかに笑顔を浮かべたままだ。
「僕は本気ですよ。パルティナ先生に叱られた一部の生徒は貴女を怖がっているようですが、この噂に便乗してその印象を払拭してしまいましょう。そうなれば僕も嬉しいです」
「事実でないことを言いふらされて、ギアー先生は不快ではないのですか?」
「そんなまさか。僕はパルティナ先生を尊敬していますから」
「冗談はやめて、真面目に答えて。つまらないわ」
「こうも即座に斬り捨てられてしまうのも、悲しいものですね」
一蹴されたギアーは、眉を下げて困ったような笑みを浮かべる。困っているのは自分の方だと、パルティナの胸の内にじわじわと苛立ちが滲んで語気が荒くなった。
「あなたが私をどう思っているかなんて、とうの昔からわかっているもの」
ギアーの眉がぴくんと動く。
ちらりと職員室内を見渡し、自分たちのやり取りが他の教員たちの関心を引いていることを確認すると、パルティナはわざと一語一句をはっきり区切るようにして強調してみせた。
「あなたの本当の想い人。それを私が知らないとでも?」
途端、聞き耳を立てていた周囲の教員がギアーへ注目した。誤魔化す気を無くした無遠慮な視線が彼一点へ集中する。
いち早く食いついてきた女教師をけしかけ、駄目押しをした。
「パルティナ先生! そ、その話詳しく聞けませんか……!」
「私の口から勝手には言えません。本人に聞いてみてはいかがです? ねえ、ギアー先生?」
彼女を皮切りに、次々と他の者たちも集まってくる。パルティナは押しのけられ、ギアーは椅子の周りを取り囲まれて見えなくなった。
人影の隙間から、ギアーの弱々しい瞳が覗く。パルティナは無言で呆れた視線を向けて立ち去った。
ギアーとて、彼女に思いを知られていることなど百も承知だ。何しろ二人は――セレナーデとプレリュードは、千年来の長い付き合いなのだから。彼にとって問題なのは、質問攻めに遭うこの状況を作り出されたという一点のみである。
教師陣からの詮索はひとまずこれで収まるだろう、とパルティナは一息をつく。
残るは生徒、特にエレナの誤解は解かねばならない。
成人たちの喧騒を横目に、夕焼け色のアイスティーを紙コップへ注ぐ。取り囲まれたギアーを置いて、我関せずと自分のデスクへ戻って古めかしい椅子に背を預け、それを飲み干した。ほのかな甘みと苦みが混ざり合ったまろやかな味がした。
パルティナはすぐにでも事実を声高に語りたい衝動に駆られていたが、それが無意味であることも承知していた。彼女は半ば諦め気味だった。誰も味気ない真実など望んでいない。強い否定はかえって怪しまれ、迂闊な行動は藪蛇だ。
しかし、顔を合わせる度にからかわれるのではたまったものではないとうんざりしていた。エレナは授業の前後でこそ真面目さを崩さずにいたものの、放課後に二人きりになると依然として好奇の目を向けてきた。一過性の噂話に過ぎないとしても、この場を乗り切る術は必要だった。
いつものように、放課後の校庭で魔術の実技練習を行う。その最中も、パルティナはいささか集中できずにいた。
水分補給を促し、数分間の休憩を挟む。斜めに傾いた夕陽が眩しく、校舎の陰に入った。
「先生、今日こそはギアー先生との関係について詳しく聞かせてください!」
早速、エレナが詰め寄ってくる。パルティナは息を吐き、努めて冷静に答えていった。
「はっきり言っておきますけれど、私と彼の間には本当に何もないわ」
「でも、同じ学校出身で昔からの知り合いなのは嘘じゃないですよね?」
「だからこそ、彼が私を好きではないと知っているの」
「その言い方、やっぱり怪しいです! じゃあパルティナ先生の方は――」
「私も! 何とも思っていませんから! 彼はただの友人よ!」
つい熱くなって、声を荒げる。エレナは平然として、友人と談笑するときのように楽しげだ。一呼吸を置いて気を落ち着けてから、改めてパルティナは口を開く。
「……ギアー先生がそのような感情を抱く相手は私ではなく、他にいます」
「!」
「けれど」
明かすまいか否か逡巡していたことだったが、自分以外の女性の存在を提示しなければエレナは止められない。そう判断して発言した。案の定エレナの瞳孔が大きく広がり、パッと表情が輝く。それを制止するように、パルティナは間を置かずに切り出した。
「何というか、それは……叶わぬ恋というものです」
「……え」
エレナの顔色が、さっと曇る。
「彼の個人的なことですから、これ以上は言いません。ですが……決して結ばれない相手だとわかっていても忘れられないような、あの人はそんな『恋』をずっと続けています。だから、たとえ噂話でもあまりからかわないようにしてあげてちょうだい」
そう説明してから、言い方を間違えたと気付いた。これではまるで悲恋の脚本で、ますます若者の興味を引いてしまいそうではないか。
しかし、パルティナの予想に反してエレナは異様に静かだった。急速に熱が冷えて、神妙な顔で口をつぐむと、視線を落とす。
「……わかりました」
元より本質的には素直で従順な娘ではあるが、それにしてもあまりにしおらしく聞き分けがよすぎるようにパルティナには映った。伏せたその目の奥には、言葉以上の思いが何か沈められているように感じられた。
妖精はこの世のあらゆる魔術を行使することができる。その中には、他者の心の内を覗くものもあった。
しかし、セレナーデはそうした介入を良しとしない性分であった。何の術をも施さず、パルティナはただの人間として、黙ってエレナの隣に座っていた。
「ギアー先生には、何も聞かないようにします」
「ええ、そうして。わかってくれればいいの」
俯いたままエレナがぽつりと零す。顔を上げると、縋るような目でパルティナを見つめた。
「でもパルティナ先生の方は、本当にギアー先生のこと……」
「まだそんなことを言うのですか!?」
「そ、そうですよね! すみません!」
エレナに笑顔が戻る。取り繕ったようなぎこちなさの残る表情で、努めて明るい声を出していた。
「えっと、それじゃあ、先生はどんな男性だったらタイプですか?」
「もう、休憩はおしまいです!」
話を打ち切るように、パルティナは立ち上がって手を叩く。エレナも素直に水筒を置いて後に続いた。パルティナは振り返らず、彼女がどんな顔をしているのかは見ないようにした。
この日以降、エレナがパルティナとギアーの関係について尋ねてくることは二度となかった。だが、パルティナの心には小さな空洞が空いたままだった。
プレリュードは、セレナーデには理解し得ない感情を知っている。
彼はある一人の人間を今も愛している。それ故に、ギアーとパルティナとは決して交わらない間柄であると断言することができた。
人間と妖精では、生態も時間の流れもかけ離れ過ぎている。老いることも死することもない妖精は、必ず人間に先立たれる。
決して逃れられないその虚しさは、何度経験しても慣れるものではない。人間を人間のように愛することができる者たちにとっては、尚更深い悲しみを伴って襲いかかってくる運命だ。
それでもただ一つの想いを大事に抱え込んでもがくプレリュードの姿を、セレナーデはずっと横で眺めてきた。
かつてプレリュードが愛した人間の女性は、彼ではない人間の男の元へと嫁いだ。そして二人の血を受け継いだ子を産み、プレリュードの傍を離れて別の土地へ移り住んだ。
プレリュードがどんな思いで彼女らを見送ったのか、セレナーデにはわからない。誰に何と尋ねられても彼は薄く微笑んでいた。その話題のときには彼の言葉がいつも以上に軽く口先ばかりであること、心がこもっていないことは察していたが、その壁の一歩向こうへ踏み込む術がセレナーデにはなかった。
多くの場合、妖精が人間へ向ける愛情とは、人の親が自らの子供へ向けるものに似ている。妖精たちの目から見れば、たとえどんなにしわがれた老人だとしても人間は等しく赤子のような存在だ。どれだけ姿形や感性を似せようとも、根本的に別々の存在だ。故に妖精が人間に恋情を抱くことは珍しい。
しかし、共感はせずとも理解はできる。理屈で御せないのがその感情だと、人間たちも妖精の仲間たちも皆が口を揃えて言う。
ならば、長い年月を過ごしても未だそのように感情を揺さぶられた経験のない自分は、何かの欠落した不完全な心の持ち主なのだろう。彼へ共感を示すことのできない自分の方が、世界に適応できていない存在なのだろう。
プレリュードにしろ人間たちにしろ、愛が故に苦しむ不合理さこそが世界の常識であるのなら、受け入れねばならない。それでも世界を愛していなければならない。
セレナーデがプレリュードを気にかけていることは確かだ。だが、エレナへ語った通り、二人の間には何もないこともまた確かな事実だ。
プレリュードも、セレナーデを特別視してはいない。二人は人間としても、妖精としても、単なる同僚に過ぎないのであった。