110.宴の終わりと約束の時
キラと共に校庭に出たときは、既にフォークダンスが始まった後でした。グラウンドの中央に揺らめく大きな炎を囲んで、二人ずつペアになった生徒たちの輪がゆっくりと回っています。辺りの屋台は片付けられていました。
炎の明かりの輪の外側にも、小さなランプが円を描くように点々と灯っています。柔らかな橙色に発光する、コミナライトの花です。茎から下を切り離されて、釣り鐘型の丸い花弁のみが下向きで宙に浮いています。夕闇の中、遠目に見える幻想的な風景とかすかに聞こえるスローテンポのダンスミュージックは優しい雰囲気でした。
私の数歩離れた後ろをキラが付いてきています。キラは廊下までは私の隣を歩いていたけれど、外に出てからは横に並ぼうとしませんでした。
キャンプファイアの周囲以外にも人の姿があります。皆が全員フォークダンスに参加しているわけではなく、コミナライトのランプの下で談笑をしている生徒たちの姿もちらほらと見られました。
照らされている光の中へ入る前に、私はランプの輪の少し手前で足を止めて振り返りました。声が届きそうな距離に他の人の姿がないことを確かめて、キラに尋ねます。
「キラはスズライト家のパーティって行ったことある?」
「? いや……急に何だ?」
「今度のメアリーとネビュラの誕生日会に誘われたんだ。キラも行くんだよね? どんなことするのか知ってる? もしダンスの時間があったらどうしよう、ちゃんと踊れる自信ないよ」
「……そうか。ルミナも来るのか……」
キラはぽつりと呟いた後、抑え気味の声で答えました。
「オレも初めて行くから、どんな感じかは知らないけど。向こうだってルミナにそこまで期待してないだろ」
「でも、心配だよ。そうだ、キラ! ちょうどいいから今のうちに、私の踊りでどこかおかしなところがあったら教えてくれないかな?」
「は? 何の話だ。ダンスパーティだって決まったわけじゃないだろ。フォークダンスとも違うだろうし」
「念のため! 何もしないで行くよりはいいでしょ?」
私はキラの手を取りました。
フォークダンスは口実でした。お兄さんのことで悩みを抱えているキラだけれど、今このときは楽しんでいてほしい。元気を出してほしい。そのために私ができるのは、一緒になって楽しむこと。そう思いました。それが真に正しい選択だったのかはわからないけれど、キラの学園祭の思い出が明るいものであってほしいと私は願っていたのです。
キラは握られた手を振りほどこうとしましたが、私は離しませんでした。控えめだったキラの声量が大きくなります。
「そ、そこまで付き合うとは言ってない! 一人で行けよ!」
「一人だけじゃ混ざれないよ」
「別にオレじゃなくたって、他の奴らが――」
「ううん、キラじゃないと駄目だよ。キラがいいんだ!」
「!?」
「スズライト家のことをお話できるのはキラしかいないからね! 行こ!」
びたりと動きを止めて脱力したキラの手を、改めてぎゅっと握りました。コミナライトの光は夕陽に似ていて、まるで最初の日の彼を見ているようでした。
フォークダンスの輪へ途中から混ざるのは目立つかもしれなかったけれど、不思議と私は気になりませんでした。それよりも、彼と一緒に行きたい気持ちがずっと強く勝っていました。
明かりの輪の中は暖かく、燻った煙が僅かばかり目と鼻に沁みました。
学園祭はここで終わりを迎えます。
ですが、この祭りの夜には続きがありました。
それは私の知らない、物語の裏側。約束されていた終幕。
知っていたのは彼女たちだけでした。
グラウンド中央に炎が灯って、歓声と拍手が湧き起こったとき。
キャンプファイアの火を点けたのは学園祭実行委員会の皆です。それがこの日最後の彼らの仕事でした。
組み上げられた木の周囲を十数人の生徒たちがぐるりと囲み、一斉に杖を掲げ火の玉を飛ばして点火します。一つ一つは小さな火だけれど、どんどん燃え広がってあっという間に大きな炎を形成しました。
エレナは、集まってきた一般生徒を誘導しフォークダンスの準備を整えています。その一方で、輪の外側を頻繁に気にしている様子です。
目を向ける先には、音楽プレイヤーを設営するための机と群青色のテントがありました。そこで皆にアナウンスをしているのはジェシカでした。
レコードの音楽が流れ、輪が回り始めます。
エレナは参加者の中に混ざったままでした。向かい合った見知らぬ男子生徒に手を差し出されて、少し困惑しながらダンスに加わります。表向きは周囲に合わせて楽しげにしつつも、エレナの意識はずっとジェシカの方にだけ向いていました。
曲が一巡して、ペアが入れ替わります。次にエレナの正面へ立った顔には覚えがありました。ミリーやスティンヴと並んで表彰台へ上がっていた先輩でした。
舞台用の煌びやかな衣装で炎の明かりを背に受けた立ち姿は非日常的で、本物の王子が現れたかのようです。長身の先輩を間近で見上げたエレナの顔に動揺が生じ、頬が淡く熱を帯びます。
ところが、エレナは先輩の手を取らずにくるりと踵を返しました。輪の外を見渡し、数歩離れた地点からフォークダンスを眺めていた女子生徒を見つけると、手招きして呼びかけます。
「あの! いきなりで悪いんですけど、よかったらわたしの代わりに入ってくれませんか? 用事を思い出しちゃって、抜けるので」
唐突に話を振られた彼女は戸惑っていましたが、相手の先輩の姿を見ると一層恥じらいを露わにしました。
返答を待たずに、エレナは輪を外れて駆けていきます。暗がりに出る直前で振り返り、彼らが踊り始めていることを確認すると、満足気な笑みを浮かべて歩みを再開させました。
エレナは一度グラウンドから離れて、ミリーがライブで歌っていた曲の鼻歌を歌いながら真っ直ぐに暗がりの中を進みました。
ぐるりと大回りをして、明かりの当たらない校舎の壁に沿って再びグラウンド側へ戻ってきます。向かう先はジェシカが一人立っているテントです。彼女の姿を視界に捉えたところで、木の陰にサッと身を隠しました。
ジェシカは何度も前髪を整え直してはキョロキョロと周囲を窺い、落ち着かない様子です。それを横から覗き見るエレナの口元には自然と笑みが洩れます。エレナが隠れていることには全く気が付いていないようでした。
ジェシカが意中の相手とフォークダンスの約束をしていることを今朝聞き出してから、エレナはこのときを待ち望み続けていました。今に始まったことではない、彼女の癖のようなものでした。
報いを受けたのだろうと、後に彼女は語ります。
しばらく待ち続けていると、一人の人影がエレナの隠れている木の前を通り過ぎていきました。
ジェシカの傍へ駆け寄っていく、小柄な少年のシルエット。
その人物に気が付いたエレナは自分の見たものを疑いました。暗闇に目を凝らして何度確かめても、かえって疑う余地がなくなるばかりです。胸がざわつき出します。
ジェシカと約束を交わしていた相手、レルズが、彼女の正面で立ち止まりました。
テントの下に入ると影が色濃く落ちて、二人の姿を闇の中に隠します。彼らの表情も話の内容も、エレナには何一つ伝わってきませんでした。
二人が動き出して、フォークダンスの輪の中へ歩いていきます。
エレナは木陰に添えた手に力を込め、瞬きもせずに二人の後を凝視しました。もう片方の手は胸元で握られていて、口元は小さく震えていました。
繰り返しのメロディが一巡りし、生徒たちの輪が二つに分かれていきます。ジェシカとレルズはその間へ加わって、どちらともなく、ぎこちなく手を取りました。
温かな明かりの輪の中で、目を合わせた二人の横顔がちらちらと照り返しを受けています。
初めの内は、レルズは表情も動きもこわばっていました。一方のジェシカは穏やかな微笑みを浮かべていて、彼の手をそっと引きます。次第にレルズの様子も柔らかく解れていき、彼のリードでジェシカがなめらかにターンしました。
回る彼女に合わせて、制服のスカートもひらりと翻ります。
振り返った顔を炎が美しく照らし出しました。その一瞬に垣間見えたジェシカは幸せそうで、彼女を見つめてエスコートするレルズもそれまで見せたことのないような優しい眼差しでした。
エレナは二人から目を離すことができませんでした。その場を動くこともできずに、立ち尽くしたままでした。
音楽が止まります。
最後の一周でした。
繋いでいた手がするりと解けます。
集まっていた皆の拍手が夕闇の空に溶けていきました。その間すらも、エレナは縛られたように微動だにしませんでした。
皆が校庭から去っていく中、ジェシカとレルズの二人だけがその場に立ち止まり続けます。燃え盛る炎を背景に、黙って向かい合ったまま動きません。二人はずっと俯いています。
周囲からすっかり人の姿がなくなって静まり返った頃、レルズの口が僅かに動いて言葉を紡ぎました。
その表情は前髪と炎の逆光に遮られてわかりません。話の内容もエレナには一切聞こえてきません。
ジェシカは両手に強く力を込めて唇を噛み締めていましたが、パッと顔を上げると明るく口を開きました。絞り出したような笑顔はひどく苦しげでした。
レルズが何か付け加えて言ったようです。
ジェシカは、首を優しく横に振って答えました。
二人が口をつぐみ、再び沈黙が訪れます。
先に重い一歩を踏み出したのはレルズでした。ジェシカの横を抜けて通り過ぎたところで少しの間だけ立ち止まったけれど、振り返らずに走り去っていきました。残されたジェシカが彼の後を追うことはありませんでした。
ぴくりとも動かなかったジェシカが不意にしゃがみ込んで膝の上にぐったりと顔を伏せ、それを見た瞬間、エレナは弾かれたように飛び出していました。
駆け寄ってくるエレナの足音に、ジェシカが動揺した目を向けます。
「エ、エレナちゃん!? ……もしかして、見てた?」
エレナは狼狽して喉を詰まらせ、何も答えられずに立ち止まりました。それを見上げると、ジェシカは八重歯を覗かせて力なく笑います。
「フラれちゃった」
薪の爆ぜる一際大きな音が響き、チリチリと火花が跳ねました。
言葉を失うエレナから顔を背けて目を伏せたジェシカは、微笑みを口元に乗せたまま続けます。
「いいの、全部わかってたから。こうなるって。わかってた……わかってたのに」
「わからないわ。わたしは、何もわからない」
ようやく発したエレナの声は硬く、非難の色が滲んでいました。胸中で燻る行き場のない思いが捌け口を求め、しかしそれはもうこの場に残されていませんでした。
続く言葉を飲み込んで黙ったジェシカは尚も笑みを浮かべています。地面を見る目にも涙はありませんでした。
「応援してくれてたのに、ごめんね」
改めてエレナを見上げたジェシカが、苦笑します。
「どうしてエレナちゃんが泣くの」
自分のことのように、肩を落として呆然としたエレナの頬を一筋の涙が伝っていました。
エレナはそれを拭いもせずにへたり込み、砂の上に手を付きます。ジェシカは両膝をついて体を曲げ、エレナに正面から向き合いました。縋りついたのはエレナの方でした。
震えているエレナの手にジェシカの手が添えられます。しかし、項垂れて隠れたエレナの眼には「わからない」と呟いたときと同じ険しさが宿っています。エレナが涙を零したのはあの一度きりでした。
燃え続ける炎と浮かび続けるコミナライトの明かりが、二人の影を際立たせます。
こうして、彼女たちの舞台は幕を下ろしました。