03.恋路(1)
当初こそ一年後の未来に一抹の不安と恐れを抱えていたパルティナだったが、それは瞬く間に薄れていった。セレナーデにとっては決して初の経験ではないものの、教師という職の業務量と慌ただしさにより「セレナーデ」の思考は日々「パルティナ」の仕事に押し流されていったのである。
目まぐるしい毎日は、しかし彼女を充実させていた。
今年度一回目の定期試験を終えた頃には、パルティナは自身が受け持つ生徒の特徴を概ね把握してきていた。
一学年には三十人余りのクラスが計四つある。彼女が担任を務めるクラスの中では、ミリーという女子生徒が最も目立つ人物だった。全校生徒の中で一番、誰よりも注目を浴びていると言っても差し支えないほどだろう。
彼女は学業の傍ら芸能活動も行っており、少しばかり幼げだが愛らしい容姿をしている。今は正に絶頂期といったところで順風満帆な日々を送っているようだが、その反面、勉学を疎かにする傾向があった。現にミリーの試験結果は芳しくなく、前期末の試験もこの調子であれば一度個人指導が必要であるとパルティナは目をつけていた。
実のところ、ミリーのことはセレナーデもプレリュードも以前から認知していた。妖精は人間と同等の感性を持つため、あらゆる文化や芸術に好意的かつ興味津々だ。ミリーの歌声は妖精たちの耳にも届いており、ほとんどの妖精が彼女を大層気に入っていた。
そんな中、パルティナがミリーの担任教師となったのは偶然である。否、運命の神々が定めていたことではあったかもしれないが、少なくとも妖精たちが意図したものではない。
パルティナが授業を受け持つ範囲の生徒には、妖精としての観点を以て注視すべき人間はほぼいなかった。ミリーに着目しているのはあくまでも教師の「パルティナ」であって、妖精の「セレナーデ」ではなかった。
クラス担任を受け持っているのは別の人間だが、新入生のシザーも同様の例の一人である。入学当初から反抗的な態度ばかり取っていることから、彼は他の教師陣にも厄介者扱いをされていた。「パルティナ」も手を焼いているが、しかし「セレナーデ」の視点では別段気に留める必要はない相手だった。
にも拘らずパルティナがシザーへ熱心な指導を続けるのは、それが彼女には気晴らしであり娯楽だからである。
「生真面目で清廉潔白な新人教師」が「素行不良の少年」を更生させるべく奮闘する日々。何と物語性のあることだろう。
シザーは、セレナーデが教師を演じる「劇」において格好の登場人物だった。彼の処遇を巡って行われる職員会議もまた、彼女の日常生活を装飾する遊戯に過ぎなかった。
生真面目なセレナーデも、それくらいの「遊び」を楽しむ感性は持ち合わせていたのだった。
刺客は思いもよらない方向からやってきた。
それはシザーと同じクラスに属する一学年の女子生徒で、名をエレナといった。日頃の授業態度や課題の提出状況など、彼とは比べ物にならない模範的な優等生である。週に三、四回ある授業中と、時折廊下ですれ違う休憩時間や登下校の時間でしかエレナ本人の様子を見る機会はなかったが、一切問題のない生徒だと捉えていた。
ある放課後、そのエレナが職員室のパルティナの席へ質問にやってきた。しかし、エレナが持ち込んできたのは学校指定の教科書でもなければ先日の試験問題でもなく、一般向けに書店で販売されている問題集だった。現在の授業で教えている内容よりも進んだ単元のページを開いて見せてきたエレナに、パルティナは問う。
「これは、どうしたの?」
「ええと、わたし、将来は王立校に行きたいんです。それでこの本を買って勉強してたんですけど、自分で調べてもわからないところがあって……」
「見せて?」
「いいんですか? 授業と関係ないことですけど」
「どんな学習でも関係ないことはないですよ。それに、生徒の質問に答えるのも先生の務めです」
これまでのセレナーデの長い「人生」の中でも、この時期からエレナほどしっかりと学習意欲のある一年生は相当の珍しさだ。いたく感心した彼女には、エレナの申し出を断る理由など一つもなかった。
パルティナがエレナと一対一で会話を交わしたのは、この日が初めてである。近くで見たエレナの大きな黒目は、離れた教卓の上から見える様子よりもずっと爛々と輝いていた。
今でこそスズライト魔法学校と呼ばれているが、元々この校舎は学び舎として建てられた場所ではない。かつては、始祖の大魔導士を始めとする太古の人間たちが拠点にしていた研究施設だった。そうした歴史があることに加え、現校長の指針により、放課後の過ごし方は生徒一人一人の自由に委ねられている。つまりは、放課後は部活動に勤しまなければならないといった校則が存在しないのだった。
普段からこの教材で自主学習をしているのかとパルティナが尋ねると、エレナは頷いた。パラッと流れた真っ直ぐな茶髪を耳にかけて、気恥ずかしげに頬へ手をやる。
「つい遊んじゃったりして、あんまり進んでないですけど……でも、王立校に受かりたいなら今から勉強しておかなくちゃと思って、少しずつ」
「でしたらまた来週、今の単元を解いて持ってきてくれる? 答え合わせと復習をしましょう」
「えっ?」
「私も来週までにその問題集を用意しておきますから」
柔らかく微笑んで見つめると、エレナはパルティナの提案に感謝して屈託のない笑顔になった。
そうして毎週エレナがパルティナのデスクまで足を運ぶようになり、その問題集は二ヶ月ほどで最後のページが捲られた。
次は座学ではなく実技指導が始まった。問題集を一冊全て解き終えたがこれからも個人指導を続けてほしいと、エレナから頼んできたのだった。
教員の定常業務の他に仕事が一つ増えたも同然だったが、パルティナにとっては些細なことである。意欲的で将来有望な人間との出会いを、彼女は心から喜ばしく思った。頼む相手次第では、エレナの熱意に教師側が付いていけず厄介扱いされていた可能性もある。エレナにとっても、パルティナとの巡り合わせは幸運だったことだろう。
最初は数十分程度だった補習時間は、次第に一時間、二時間、と延びていった。それに比例するように、二人の仲も教師と生徒の垣根を越えて深まっていった。
互いに根が真面目な人物であるため、必要な礼節は勿論弁えている。その上で、勉学以外の話題でも談笑ができる程度の関係が築かれていった。
エレナの本性が発覚したのは、そんな折だった。
「――そう、今度は火の玉ではなく、火柱が立ったでしょう? それが『術の形状を変える』ことの一例です。今は火の魔術でしたが、水や土など、他のどのような術でも応用することができます。種類は膨大ですから、少しずつ慣れていきましょう。試験で頻発するものは限られるから」
「はい!」
魔術の実技練習は基本的に屋外で行う。外に出ているのはパルティナとエレナの二人だけだ。先日の衣替えでエレナは半袖の制服を着用するようになり、パルティナもまた涼しげなロングスカートと薄いブラウスを身に付けている。夏が近くなり、夕方の放課後も外は暖かかった。
魔術の媒介に用いる杖を携えたまま朗らかに返事をするエレナに、パルティナの表情も声も綻ぶ。
「そろそろ会議の用意をしなければならないから、今日はこの辺りで終わりにしようと思うのだけど……まだ元気そうね。ほどほどにするのよ?」
「わかりました。じゃあ続きは来週お願いします!」
エレナは素直に杖を仕舞った。
帰り際に、思い出したようにくるりと振り向く。
「そういえば、先生」
口角をにんまりと上げ、これまでパルティナには見せたことのなかった顔で悪戯な猫のように目を光らせていた。
「二年生の古典の、ギアー先生のことなんですけど」
「え? ええ」
「実際はどうなんですか? あの噂」
「……何の話でしょう」
眉を寄せるパルティナに対し、エレナはパッと笑顔を広げる。
「とぼけたって無駄ですよ。同級生同士で、卒業しても一緒に先生になるなんて運命みたいじゃないですか! みんな噂してるんですよ、先生たちのこと! 昔付き合ってたって本当ですか? それとも、今も秘密の関係? わたし的にはそっちの方がいいなって思ってますけど!」
「な……なっ!? 何ですか、それは!」
パルティナが動揺を露わにして声を荒げるのを見て、ますますエレナは上機嫌になった。
パルティナは知らなかったのだ。今までは、授業風景や放課後の自主勉強で出会う勤勉なエレナとしか話す機会がなかったのだから。
エレナの素顔とは、他人の恋愛沙汰を人一倍好む少女。
それは「パルティナ」と、その内に潜む「セレナーデ」には理解し得ない感情だ。
会議の時間だからと、パルティナはエレナを半ば追い払うように振り切って校舎へ戻った。途中でちらりと振り返ると、エレナは校門へ向かって歩き始めていた。
軽やかな足取りで下校するエレナの背中が、みるみるうちに遠ざかっていく。影が伸びて、心の距離も離されていったようだった。