55.沈んでも、翳っても、
他人の心の声が聞こえる。聞こえてしまう。少女が一人背負うその重さとは、いったいどれほどのものなのでしょうか。
彼女の力は、目覚めてからまだ半年も経っていませんでした。
ルベリーは元から引っ込み思案で、親しい友人は多くない女の子でした。相手が自分をどう思っているのか、ということを少々過敏に気にして恐れてしまう節があり、人付き合いは得意ではなかったのです。けれど、普通の少女として、十分平穏に学園生活を過ごせていました。
静かだったルベリーの世界に突如、何の前兆もなく、数多の「声」がひしめくようになったこと。それが日常を崩壊させていきました。
きっかけも原因も一切が不明だとルベリーは語ります。彼女にわかっているのはただ一つ、今年度に入ってから変化が現れたということだけでした。
休み明け初日に登校しているときは、まだ何事もなく。廊下に貼り出された新クラス名簿から自分の名を探しているときは、周りが少し騒がしいなと思う程度で。
明らかに異常だと気が付いたのは、全校集会のときでした。いつまで経ってもざわめきが収まらないにも関わらず、式が平然と進行していくのです。それもそのはずで、その「ざわめき」は実在しているものではありませんでした。
複数の男女の声が、代わる代わるルベリーの心の中に飛び込んできます。つまらない、退屈だ、友達ができるか不安、新任の先生は優しそう、眠い、お腹すいた――そういった、まるで繋がりのない独り言同然の言葉の波。けれど左右の人の顔を盗み見ても、その口元はまるで動いていません。その声は直接頭へ流れ込んできているような感覚で、どの方向の誰が言っているのかも判別できませんでした。
幻聴か、あるいは、この場にいる複数の誰かの心の声が聞こえているのか。どちらも突拍子のない話だけれど、そう推測せざるをえなかったのです。
幻聴ならどんなに良かったのでしょう。声はいつまでも止まず、教室に戻ってからも、授業中も、休み時間も、消えることはありませんでした。それどころか、耳に届く範囲は日に日に広がっていきました。
ルベリーが今のクラスメイトの特徴で真っ先に覚えたのは顔でも名前でもなく、その声と胸の内に渦巻いた感情だったのです。
ルベリーの打ち明け話は、エレナもすぐには受け入れられなかったようでした。動揺を隠しきれず、問いかけ続けます。
「本当なの……? ずっと休まないで普通に学校来てたじゃない。先生には話してあるの? ……じゃあ家族は? ……なんで、どうして誰にも相談しなかったのよ」
繰り返し首を横に振るその様子に、思わず少し語調が強くなってしまいました。ルベリーは俯き、鼻をすすり上げます。
「……怖くて。表の態度と、その裏で思っていることが、全然違う人ばかりでした……。仲の良かった友達も、優しかった先生も。人が……怖くて。誰も信じられなくなって……」
仲睦まじく笑い合っているように見えるけれど、内心では馬鹿にしていたり嫉妬していたり。親しげに冗談を言い合っているように見えるけれど、本心では嫌がっていたり疎ましく感じていたり。
そうした光景を、僅か数日の間に彼女は何度も見てしまいました。耳にしてしまいました。ただでさえ突然の「体質」の変化に困惑していたのですから、その痛みは一層大きかったのでしょう。
すっかり人間不信となり、心をすり減らした彼女は、人との関係の結び方を忘れてしまいます。今までどうやって同級生たちと付き合ってきたのか、わからなくなってしまったのです。
そんな折に起きたのが、あの昼休みの出来事でした。そのときのことを最も悔やんでいるのは、他でもないルベリー自身なのでした。
エレナやミリーたちの心に触れた日々の中で、今や彼女の傷は癒えつつありました。誰もが打算や建前で人と付き合っているわけではないと、思い出すことができたのです。
身勝手な自己防衛で周囲の人を傷つけてしまった、と自分の言動を悔やみ、尚も謝り続けるルベリーを、隣に並んで腰かけたエレナは穏やかになだめます。
「そんな前の話、もういいのよ。こっちも悪かったもの。きっとリーンもみんなも、話せばわかってくれるわ」
「……リーンさん……」
「……?」
こわごわと名前を口にするその様子に、エレナは引っかかりを覚えました。
授業時間の終わりと帰りのホームルームの開始を告げる鐘が鳴ります。「あ……」と声を漏らして顔を上げたルベリーでしたが、エレナが教室へ戻る素振りを見せないものなのでそのまま話し続けました。
「あの時はたまたま、ちょっと機嫌が悪かっただけだと思うわ。本当のリーンは、とっても明るくて優しい子よ」
「………」
「……何か隠してるわね?」
エレナは困ったように眉を下げながら微笑んで首を傾け、ルベリーの顔を覗き込みます。しかし彼女は、その目を見ようとはしません。
「ルベリーは、わたしの考えてることがわかるんでしょう? だったらルベリーも全部話してくれなきゃフェアじゃないわ。どうしても駄目?」
「う……けど……」
言い淀むルベリーを見てエレナは身を引き、静かに首を振りました。
「……ごめんなさい、全部は言い過ぎたわ。誰にだって、話したくないことくらいあるものね」
「ち、違う。そうじゃ、ない……です。私は……みんなの秘密を、沢山、勝手に、聞いてしまっているから。私のことじゃない……。これは言わない方が……知らない方がみんなのためだと……」
「リーンはわたしに隠し事があるの?」
真剣な顔で鋭く切り込みながら、エレナはじっとルベリーの横顔を見つめます。手のひらに汗が滲みました。
「だったら、ルベリーが抱え込む必要はないのよ。だってそれはわたしとあの子の問題ってことのはずだもの。ルベリーには関係ないことだわ」
「……全部、わかってるんですか?」
「いいえ、何も。でも、リーンはわたしの大事な友達だから。何を隠してたって、どう思われていたって、わたしはリーンが好きよ」
ルベリーが少しだけ顔をこちらに向けます。エレナの瞳には確かな意思が表れているけれど、その笑みはどことなく強張っています。そして何より、心の中に押しとどめている迷いや不安の声は、彼女には隠し通せないのです。
全て見透かされていることも承知の上で、エレナはあのように言いました。そうすることで、本気であることを示したかったのでした。
「で……でも、やっぱり私からは……」
「そう……わかったわ。じゃあ、もう聞かない。リーンが自分から話してくれるのを待つわね」
「………」
笑顔で頷きながらも、内心、恐らくは――という想像がエレナの胸の内にはありました。
ほんの少しだけ、彼女には覚えがありました。
ルベリーが教室を飛び出したとき、追いかけようとしたエレナに向けられた多数の白い目。その中には友人たちの視線が確かにあって、リーンもそちら側にいました。
真っ先に席を立ち不満を切り出したのも彼女でしたね。
そこに今のルベリーの話が加われば、リーンがひた隠しにしている心に全く察しがつかないほど、エレナは愚鈍ではありません。
太陽のような強い光は、同時に影も生み出します。
私はエレナの明るさを、眩しさを、尊敬しているけれど。素直に受け取れない人も大勢いるのでしょう。
憧れること、羨むこと、妬むことはよく似た思いであり、他者への羨望は行き過ぎれば嫉妬へと変わります。親しくても……いえ、親しいからこそ、傍にいるからこそ、時として感情は濁るのです。
ふいと瞳に影を落とし、エレナは膝を抱えて顔をうずめました。
「わたしにもあるもの……友達に隠してること。イヤな気持ち。だからリーンが何て思っていても、わたしに責める権利は無いのよ」
「それは……」
「ルルア、って子、わかる?」
「え……!?」
唐突に、ぽつりとエレナが問いかけた名は、クラスの誰のものでもありません。今日に至るまで、私は知りません。私の周りでは恐らく、その名を彼女の口から直接聞いたのはルベリーだけなのだと思われます。
エレナはもう一度ルベリーの方を向きました。
「い、いきなり何のこと……です、か。私は、し、知らない……。何も聞いてない、です」
「うふふ、嘘ね? ルベリーって案外わかりやすいわ」
狼狽して手と髪で顔を隠す彼女に、自嘲気味の儚い微笑みを浮かべます。
「それがわたしの本当なのよ」
「………」
エレナはそれ以上口にしません。ルベリーも何も言えず、戸惑いながらも、黙ったままふるふると首を小さく横に振りました。「ありがと」とエレナは小さく呟き、体の正面へ顔の向きを正します。
狭く薄暗い階段の下の空間、廊下と繋がる角が、外から入り込む光で白くなっていました。
「でもね、だからこそわかることもあるの。それは多分、ルベリーもわかってることだと思うわ」
「え……」
光が、琥珀色の瞳を温かく照らします。
「例えばわたしは、ルルアやみんなには隠してる、絶対に言えない気持ちがある。もしあの子がスズライトに通っていて、同じクラスだったら、わたしは……ルベリーがさっき言ってたみたいに仲良しのフリをし続けていたでしょうね」
ルベリーは、静かに続きを待っていました。
「そういう嘘をつく人が怖いんだってルベリーは言ったけど、嘘ではないの。わたし、ルルアの全部を嫌ってるわけじゃないのよ」
目を閉じたエレナは、ルルアという友人のことを心に思い描いているのでしょうか。
少しして目を開き、顔を上げて振り向くと、ルベリーは探るように彼女をじっと見ていました。それをエレナは真っ直ぐに見つめ返します。
その心を知っているのは、エレナ自身とルベリーだけ。
「……聞こえた、のね? うまく言えないから……助かるわ。うふふ、ちょっと恥ずかしいけど。……全部本当の気持ち。矛盾してて変かもしれないけど、どっちもわたしの本音よ」
ホームルームが始まりシンとしていた校舎が、にわかに活気づいてきています。エレナは天井を仰ぎました。
「さっきルベリーが教室を出た後……リーンと少し言い合いになったわ。もうやめればいい、って言われちゃって。わたしがルベリーと仲良くしようとしてるのが嫌みたいだった。もしかしたら、前からそんな風にイライラしていたのかもしれないわね。例えば……いい子ぶってる、とかって……」
ハッとして息を飲むルベリー。
エレナは顔を上げたまま続けます。
「……だけど、楽観的なのかもしれないけど、それだけじゃないって信じていたいの。リーンが付けてたあのシュシュってね、夏休みに遊びに出かけたときわたしと一緒に買った物で……お揃いにしようってリーンから誘ってくれたのよ」
レモン柄とサクランボ柄のシュシュ。それは二人の友情の証。少なくとも、エレナはそうだと信じて疑っていませんでした。それはとてもささやかなことですけれど、二人でシュシュを身に着けて見せ合ったとき、本当に嬉しかったのです。
笑い合っていたあの時間は嘘ではないと思いたい。そこに悪意ある感情は無かったと信じたい。エレナはそう語ります。それが仮に間違っていたとき、より深く傷つくことになるのだとしても。人の感情は一点ではないはずだからと。
「わたしがルルアに抱いている気持ちと、リーンの気持ちは同じような気がするの。その答えを一番よくわかってるのは、ルベリーじゃないかしら?」
ゆっくりと広がっていく光。
暗く影を落としたルベリーの顔は、次第に太陽の光で明るく照らされていました。
「今までイヤな気持ちを沢山聞いてしまったのよね。けど、ずっと本当にそれだけじゃなかったはずだと思うの」
「……確かに……ずっとってわけじゃ……。……学園祭の相談も、みんな、楽しんでました」
それを聞いたエレナは、満足げに満面の笑みを見せました。
「よかった。そうよね。もしわたしがルベリーだったら、そういうことに気付いていきたいわ。嫌なことも悲しいことも沢山あるけど、それが全部じゃないもの。いいことや楽しいことだって、いっぱいあるんだから。それを忘れたくないわ」
「……うん」
か細い囁き声に、エレナはサラリと髪をなびかせて振り返ります。
「……私も、そうしたい……」
ルベリーの口ぶりは自信なさげだったけれど、その両目には柔らかな光が浮かんでいました。
充分だと、エレナは思います。
自分自身を勇気づける言葉でもありました。強がりでもありました。
越えなければならない課題は沢山残っています。ルベリーもエレナも、この言葉だけで根本的な不安をすっかり払拭できたわけではないのです。
けれど、その長い前髪が覆い隠していた昏い瞳には、希望の明かりが灯されました。
ルベリーは、エレナの中に太陽を見たのかもしれません。
その眩しさと強い熱は、時に離れたくなってしまうこともきっとあるけれど。その光を正面から受け止めることができたなら、それはいつしか自分自身の光へと変わるかもしれない。
そう願います。
目を細めて、伸びをして、エレナが光差す廊下へと向かいます。ルベリーは彼女の後ろに続きました。
頑張ろう、と呟いたのは、誰の声だったのでしょう。
その声は校舎の光に吸い込まれて、溶けていきました。