56.そこには陽が在り続けるから。
みんなの笑顔と笑い声。ワクワクした感情で満ちた瞳の輝き。チョークが黒板を叩く音。涼やかな風。地を照らす太陽の光と熱気。
教室に戻り、皆と話をしているうちに、私の心は学園祭準備で盛り上がる雰囲気の中へとすっかり引き戻されていました。
エレナが向かったなら大丈夫だろうから。ルベリーに何があったのか私はわからなかったから。
今この時が、楽しかったから。
そうやって、言い訳ならいくらでも並べられるのです。
私は何もわかっていなかったのです。
終業の鐘が鳴る五分前にパルティナ先生が教室へ帰ってきて、半ば自由時間と化していた教室内の空気がすごすごと落ち着きを取り戻していきました。近付いてくる足音に気が付いていたのは、恐らく誰もいませんでした。
簡潔なホームルームを終え、クラスメイトたちがまばらに校内清掃の担当場所へ向かい始めましたが、そのうちの数名が隣のクラスの普段と違う様子に気付きます。廊下まで掃除用具を取りに来ていた私とキラも、ざわつきが気になって足を止めました。
少し前の出来事。必死の形相で走っていったエレナと、彼女がルベリーを捜していたことと、黒い渦――霧――はっきりと認識したその姿のことが、次々と脳裏を駆け巡りました。
ルベリーはどうしたんだろう。
エレナはルベリーを見つけられたかな。
黒い霧に触れた時の、小さく痺れる感覚を思い出しました。その時に感じていた、不安に似たざわざわした気持ちが少し蘇ってきます。
角からちらりと中を覗いてみると、教卓にギアー先生が黙って立っているのが一番初めに視界に入りました。一文字に結んだ口はぴくりともせず、マリーゴールド色の瞳もじっと生徒たちを見つめています。俯く彼らの返答を待っているような、重い沈黙が流れているのが傍目にも感じられました。
「……気にしすぎるなよ」
「え、あ、うん。大丈夫。今は何も見えてないよ」
隣にいたキラが教室から目を逸らし、私へ向けて小声で一言。こちらもつられて小声で答えます。
ネビュラから受けた「お城の人たちにはこの力のことを気付かれないように。外ではなるべく黙ってた方がいい」という忠告。用心するに越したことはないとキラが言うので、私たちは学校の皆にも知られないようにしていました。学校では、私の「能力」のことを知っているのはキラだけでした。
「掃除するぞ。こういう野次馬みたいなのは良くない」
キラはクールに言い、それ以上は中の様子を窺おうとせずに踵を返します。
彼の後を追いかける前に、私はもう一度だけ振り向きました。目に留まったのは、誰も座っていないぽつんと欠けた席でした。
太陽が白く照らした朝。
パルティナ先生が来ません。
授業でもホームルームでも、普段は始業の鐘が鳴るよりも早く教室へ来ている先生が、この朝だけはなかなか来ませんでした。クラスメイトたちが近くの席同士でヒソヒソと噂話をしているのが聞こえてきます。
二十分ほど遅れてようやく、先生はやってきました。教卓に出席簿を置き、一限目まで少々変則的なスケジュールになるけれど、と前置きをして、険しい顔で教室を見渡します。皆はヒソヒソ話を止めました。
先生が何の話をしようとしているのか。私も含めて生徒のほとんどは、既におおよその見当がついていました。同学年の間では、昨日あのクラスで何か揉め事が起きた……という噂がすっかり広がっていたのです。
隣のクラスは、他のクラスよりも少し遅れて掃除を始めていました。私は帰り際にエレナを捜して、掃除中のその教室や近くの廊下、彼女がいそうな図書室や校庭へ足を運んでみたけれど、見つけることはできませんでした。同様に、ルベリーの姿も見当たりませんでした。
黒い霧も、渦も、見えません。本当に何もないのか、私の「能力」がうまく働いていないのかどうかは、わかりません。
ただ、いつもの仲睦まじさは鳴りを潜め、どこかギクシャクとした雰囲気がそのクラスには流れていて、エレナの居場所を知らないかと一言声をかけることにすらためらいを感じたものでした。
その状況に友人たちが何か関わっているということだけが、私の想像の限界でありました。
「今まで皆さんの周囲に、魔法によく似た不思議な力を持っている人がいたことはありますか?」
教室が完全に静まってから、パルティナ先生が薄い唇を開きます。
つい最近聞いたばかりでまだ耳慣れない、あの単語が飛び込んできました。
「半霊族と呼ばれる、ほんの少しだけ私たちと違う特殊な人がこの国にはいます。大抵は幼いうちに発覚するものなのですが、時々そうではない人がいて、昨日この学校に一人見つかりました」
え、と漏らしそうになった口を、私は慌てて押さえます。バッと振り向いてキラを見ると、彼も驚いて目を開き固まっていました。少しして私に気が付き、顔を見合わせます。
こちらの様子が気に留まることはなかったようで、先生はすぐに話を再開しました。もちろん、話題は私のことではありません。
隣のクラスで、ルベリーが人の心の声を聞く「能力」に目覚めたこと。それがどういったもので、どのような出来事を引き起こしたのか。その後ルベリーは何を思い、何を言い、何と伝えたのか。昨日の出来事が説明されていきます。
意外だったのは、ルベリーの名を明らかにし、曖昧な表現でぼかさず、包み隠さず、詳細に語ったことです。
一通り先生が話し終えた後には、質問を受け付ける時間も設けられていました。けれど、具体的な質問の声はほぼ上がりませんでした。
「そうですね。突然すぎて、よくわからないですよね。……できることならば、皆さんにはこれまでと変わらずに彼女と接してほしいと先生は思っています。うまくいかないこともあるかもしれませんが……ルベリーさんの気持ちになってみてください」
先生は教卓の上で、願いをかけるように両手を組み合わせます。
「彼女をよく知ろうとして詮索したり、過剰に励ましの言葉をかけたりはしないようにお願いします。……皆さんなら、わかっていると思いますが」
パルティナ先生が語る間、皆は顔を上げて一言も口を挟まずに耳を傾けていました。この教室内には、昨年ルベリーと同じクラスで友達同士だった人もいるはずでした。
どんな思いで聞いていたのでしょうか。そして、もしもそれがわかったとしたら、どんな思いになるのでしょうか。
「同じ力も持たない、他人の私たちが彼女の力になれることはとても少ないです。ほとんど無いと言ってもいいでしょう」
先生の言葉はまるで突き放すかのようですけれど、ゆるやかに流れる川のような口ぶりには、話の内容から受ける冷たさとは裏腹に優しい思いが滲んでいると感じます。
「今まで通り自然にするのが、恐らくルベリーさんにとって一番のことです。何も特別なことをする必要はないのですよ」
チャイムが鳴りました。
鳴り止むまで先生は口をつぐみ、私たちを見つめていました。ライトブルーの瞳は水晶のように澄んでいて、全てを見通しているようでした。
――心が読めるって、先生が誰を当てようとしてるのかわかるのかな。いいなあ。羨ましい。
――俺も潜在能力が眠ってたりするのかな?
――隣のクラスのルベリーさん? 知ってる?
――知ってるよ。見たらわかるんじゃない? ほら、あの――
休憩時間になって再び、様々な思いが溢れるようにざわめき立ちます。席を立って仲良しのメンバーで集まる、いつもの光景でありますが、そわそわとした空気でした。
「……祭りに行く途中で倒れたのも、そのせいだったのかもな」
キラは座ったまま、独り言のように呟きました。
先日は興味の無さそうな素振りをしていたけれど、内心ではそのようなことはなく、彼も人知れずルベリーを気にかけていたのかもしれません。
私はというと、彼女の事情を知ってからも疑問が拭えずにいました。
「お祭りに来てる人の心の声って、楽しい気持ちでしょ? だったらどうして、あんなに苦しそうだったの……?」
あの時ルベリーはひどく辛そうにしていましたし、実際にそれを裏付けるように、黒く濃い霧を発生させています。けれど、それが何故だったのか、私には理解が及んでいませんでした。
頬杖をつき、その手のひらを口元に当てながら、キラが考えを述べます。
「中身は問題じゃないのかもしれない。祭りの笑い声でも、そこに心の声も重なって数が倍になったら、とてつもない騒音……情報量……になるんじゃないのか。……想像だけどな」
前髪がぱさりと目にかかりました。
「結局オレには、想像するしかできないんだ」
彼の表情は冷めて見えるけれど、ルベリーと真っ直ぐ向き合おうとしているように私には見えました。その目が、スズライト家の屋敷で私のことを繰り返し心配してくれた時の目によく似ていましたから。
「ルベリーも一緒に、またみんなで遊びに行けたらいいね」
キラに笑いかけます。手の向こう側で微笑み返してくれたような気がしました。
キラが言った通り、私には想像しかできません。
人の心の声というのは、どんな時に聞こえるのか。どんな風に聞こえてくるのか。どれくらいの距離から聞こえてくるのか。どんな時に困って、どんな時に悲しくて、どんな時に嬉しく思うのか。疑問はいくらでも沸いてきます。説明を受けても、本人に尋ねて答えが得られたとしても、その感覚を自分のものにすることは不可能でしょう。
どれだけ頑張っても、私たちがルベリーと全く同じ目線に立つことはできません。彼女が抱える不安や恐れ、苦悩の根本を取り払うことも、恐らくできません。
それでも、そうやっていくつも考えを巡らせながら、一歩ずつ歩み寄って理解を深めるほかないのです。
だけど。
ルベリーの世界は、私には聞こえないものが――皆には聞こえないものが、聞こえる。
私の世界は、ルベリーには見えないものが――皆には見えないものが、見える。
今になって思うと、私と彼女は同じではないけれど、とてもよく似たものを抱えていたのかもしれません。
もっと早くに気付くことができていたのなら、と、後悔しています。
無知な少女には知る由もなかったのでした。