26.蕾がつく前のこと

 清々しい晴天の日が続いていました。雲が一筋も見当たらないことも珍しくはなく、夏服に衣替えをして剥き出しとなった肌に太陽は容赦なく照り付けてきます。
 私はこの時期に一度日直の当番が回ってきて、朝早くに登校したことがありました。誰もいない教室は明かりも消えていましたが、ただ一つだけ既に鞄の置かれている机があったのです。ネフィリーの席でした。
 覚えていますか? 彼女と初めて話した日、花壇にクラスみんなでコミナライトの花を植えたこと。ネフィリーが学園祭までの間その世話をする係を引き受けたこと。彼女はきっと、この朝も一人で仕事をこなし続けていたのだと思います。誰かに手伝いを頼んでいるところは見たことがありません。辛そうな様子も一切見せません。
 彼女は、毎朝と放課後の水やりを決して欠かしませんでした。

 ある日の放課後。
 ネフィリーは立てかけられたジョウロを一つ取り、水道で水を溜めて校庭隅にあるレンガの花壇へ向かいます。ジョウロいっぱいに水を入れても全体へ撒くには少々足りないので、いつも花壇と水道の間を一、二回は往復していました。一歩進むたびに中の水が縁に当たって跳ね、膝やソックスを濡らします。ずっしりと重いジョウロに、自然と体は斜めに反りました。
 彼女は水やりを終えた後、予定のない放課後は特に、花壇脇に居続けることが少なからずありました。何をするでもなく、水滴の滴る葉を立ったままぼんやりと眺めるのです。そうしていると、近寄ってくる足音にも、それが自分の横で止まったことにも、気が付きませんでした。
「腕、怪我してる」
「!」
 声がようやく耳に入った頃には右腕に触れられ――決して乱暴に掴まれたのではないのですが――ネフィリーはバッと頭を上げて張り詰めた顔で振り返りました。手を伸ばした彼――スティンヴが、目を剥いて固まっています。袖口に赤い線が入った規定シャツの第一ボタンは外し、色の薄いサングラスは変わらず身に付けていました。
「……んな驚かなくてもいいだろ。たまたま通りかかっただけだ」
「ご、ごめんなさい。ちょっとボーっとしてて。それより、この程度別に何てこと……」
 見ると肘の辺りに細い切り傷があり、うっすらと血が滲んでいました。言いながらネフィリーは彼の手を除けようとしましたが、途中で止めて口をつぐみます。
 スティンヴがもう片方の手で杖を持って腕にかざすと、ペールグリーンの丸い光が傷口を包んで塞ぎました。
「………、ありがとう」
 俯きがちに小さな声で、礼を言います。
 行われたのは学校で教わる初級の治癒術で、小さな怪我であれば学生でも一瞬のうちに治すことができる便利なものです。彼は傷が塞がったことを確認すると手を離し、足元にある空っぽのジョウロと一面緑の花壇を見ました。
「前もここにいたけど、これお前の花壇?」
「そういうわけじゃないよ。学園祭で使う花でね、私はその水やり係なんだ」
「一人でか」
「うん。みんなやりたそうじゃなかったし、私は植物の世話好きだから、いいの。部屋でも色々育ててるから一つくらい増えたって同じだよ」
 ネフィリーも花壇を眺めました。初秋に花を咲かせるコミナライトは、夏場大きく成長して気温が落ち着き出す頃には蕾をつけ始めます。葉は横這いに伸びていて、スティンヴが以前見たときから大分育っていました。
「学園祭用ってどういうことだ? 飾り?」
「私こそ知りたいよ。去年はどうだったの?」
「……そうかお前転入生だったな。まだいなかったか。確か壁は普通に紙で作った花飾り貼ってた、つか作らされた。本物の花なんて特になかったような気がするけど」
「じゃあ花束とかかな? 確かステージ発表で競ったりするんだよね。クラスの子がダンスで出るらしくて、最優秀賞目指すんだって燃えてたよ」
 そのときの様子を思い出してか、手を口元に添えくすりと笑います。彼女はエメラルド色の髪を普段通り頭の上で一まとめにしていて、涼しげな白いうなじが露わになっていました。スティンヴはそれをちらりと視界の隅に映しましたが、すぐ逸らして黙り込みます。
「何に使うにしても、ちゃんと咲かせなきゃね。雑草抜いたりしたいし、夏休みも様子見に来るつもり」
「……手伝ってやってもいいけど」
「え?」
 聞き返して顔を見ると、彼はどこかふて腐れたようにしてじっと花壇の方を向き続けていました。
「だから、ここの世話」
「気持ちはありがたいけど、私一人で大丈夫だよ。スティンヴはホウキレースの大会とか練習とかで忙しいでしょう」
「水やりも草刈りも、何時間もかからない。気分転換くらいにはなるし」
「でも」
「あらースティンヴじゃない! それにネフィリーも。こんなとこで何話してたのかしら?」
 話の途中で、不意にエレナが割って入ってきました。会話に集中していたからなのか、彼女の気配にはスティンヴも気付いていなかったようです。突然の軽快な声に少々驚きの色を示したものの、直後すまし顔に取り繕ってサングラスの縁を押さえました。
「いや、別に。何でもない」
「エレナこそどうかしたの?」
「んー? 職員会議でパルティナ先生のとこ行けなくて暇だから、フラフラしてただけよ」
「……それは本当か?」
「本当よ〜。別に、放課後なのに鞄も持たないで裏庭側に歩いてくスティンヴ見つけたから気になって後つけてきた、なんてわけじゃないわ♪」
 にこりと屈託なく猫のように笑う彼女から、スティンヴはふいっとレンズの向こう側で目を背けます。エレナは、二人がこうして話しているところを見るのは初めてでした。ホウキレース観戦をきっかけに仲良くなったのだと、ゼクスさんの話は省いてネフィリーが簡単に説明します。スティンヴもそれ以上のことは特に言いません。
 エレナが現れたことにより、完全に話題はすり替わってしまいました。彼女の影響力、というより、場の空気を動かす力はこの頃から秀でていたものです。今更それに抗うこともできず、スティンヴは彼女たちに聞き取られないよう小さく舌打ちして唇を尖らせました。