46.月のお姫様(2)
初めはただ漠然と、何かを感じるだけだったこと。いつしかそれが黒く見えるようになり、人の苦しい気持ちや辛い気持ちなのではないかと思うようになったこと。常に見えているわけではなく、いつも突然現れたり消えたりするのだということ。私以外には見えていないようだということ。
人へ打ち明けたのは、この時が初めてです。
ここ数ヶ月間のことを思い出しながら、どうにか話し終えると、それまではじっと耳を傾けてくれていたキラが硬い表情と声で問いかけてきました。
「それは、オレに対しても見たんだな?」
「……うん。確か、初めて会った日の夕方と……みんなでホウキレースを見に行った日の後に。でもキラだけじゃなくて、他の人にも何度か見たことあるんだ。隠してたわけじゃないんだけど、自分でも変だなって思って信じてなかったし、どう話せばいいのかわからなくって……ごめんね」
「謝ることじゃ……」
黙り込んでしまった彼に何を言うべきか、それも私にはわからず、気まずい沈黙が流れます。
向かい側に座るネビュラは、私が話している間もずっと口元に手を当てて何か考える仕草をしていました。
「んー、そんな話をどっかで読んだような?」
「ほ、本当?」
私はキラとの間に漂う空気をごまかしたくて、少し大袈裟に声を上げます。
彼女はしばし首を捻って唸っていましたが、「思い出したわ、アレだ」と指を鳴らすと紅茶の残りを一気に飲み干し、グッと立ち上がって、
「書庫に行くわよ。ついてきなさい」
戸惑う私たちを見下ろしながらそう命じました。
魔法学校の奥にそびえ立つ塔と、その中の小さな図書室のことを、覚えているでしょうか。壁一面に連なる本棚、それにも収まりきらなくて床に積み上げられた分厚い書物の数々、あまり日光が差し込まなくて薄暗い部屋。この屋敷の書庫はそれをそのまま図書館の規模まで大きくしたような場所で、背の高い本棚が部屋を仕切るようにズラリと並んでいました。中へ進んでいくうちに、出入り口を見失ってしまいそうです。
しかし、慣れ親しんだ木の香りがするので、先程までいた豪華な部屋よりは幾分か落ち着きを感じました。ここにも水晶玉らしき装置が天井から吊るされていて、快適な温度を維持しているようです。
「前にも入ったことはあるが……何度見てもこの量は凄いな」
「あった、これこれ。読んでみ」
ネビュラは全ての本の場所を記憶しているのか、迷いなくスタスタと本棚の間を早足で歩いていきました。私たちはその後ろに付いていき、彼女が棚から抜き取った古い本を受け取ります。
それは意外にも数十ページ程しかない薄さの小さい冊子で、どのページもすっかり黄ばみパサパサになっていました。表紙は中央に一文綴られているのみですが、見たことがない文字である上に擦り切れていて何と書かれているのかはわかりません。
「それと、これ」
ネビュラは近くの棚からもう一冊、今度は分厚い辞典のような本を取り、ページを開いて私たちに示してみせます。その見開きの右側のページには黒インクで書かれた文章が続いていますが、左側にはまるでステンドグラスを写し取ったような挿絵がありました。
絵の中心にあるのは、ロングドレスを身にまとった髪の長い女性の姿です。何かを抱き留めるように両腕を広げています。真っ暗に塗り潰された周囲には白い円がポツポツと浮いていて、それが私には煌めく光に見えました。
「これは……歴史書か?」
「うちの血族とお国の歴史に偏った、ね。ルミナに渡したペラい方は、創世紀に書かれたって言われてる詩よ。この辺は創世紀に関する本のエリアなの」
ページを破かないように、慎重につまんで一枚捲ってみます。ピリピリと小さな音が立ちました。
柔らかな曲線で描かれた絵と短い文章が載っている、ということだけはかろうじて理解できました。しかし、絵は人物や生き物らしきものが見当たらない抽象的な図で、文章は表紙のものと同じ謎の言語です。それは記号の羅列にしか見えず、私にはお手上げでした。
「……全然読めないです……」
「ああ、古代語ダメなの?」
「普通は読めないし習うものでもないんだ。お前基準で言うな」
苦言は無視して、ネビュラは歴史書を開いたまま強引にキラに預けます。流れるような動きで私の手から冊子をヒョイと取り、なめらかに詩を読み上げました。
その髪は光を纏い 我らが光の道標となり
その瞳は闇を映し 我らが闇を取り払いたり
彼の者が歩むところ
荒れ狂う渦は静まり 負を誘う霧は晴れ
後に残るは 祝福の光なり
渦、霧、というフレーズが耳に入って、胸の奥にざわざわしたものを感じます。
「まだ続きがあるけど、長いし省略。これは『月光』ってタイトルの詩ね」
「月?」
どの辺りが、と続けるより早く、ネビュラはパタンと冊子を閉じてキラの方へ振り向きました。
「で、次はこっち。ってゆーか学校ではこの辺も習わないわけ?」
「習ってない。悪かったな、理解が悪くて」
「誰もそんなこと言ってないでしょーが。あ、汚い字だけどこれは現代語だからよく見れば読めるはずよ」
ネビュラはキラとそんなやり取りをしながら、彼に持たせた歴史書のページを指でトントンと叩きます。近くへ寄って身を屈め、文字に顔を近付けてみると、少し癖が強く荒い筆跡ですが、確かに私たちが普段用いているのと同じ文字で書かれていました。
「月の……姫君」
その見開きのページに綴られていたのは、創世紀の終わりとその次の時代の始まりを生きたという、とある女性の逸話。生まれも名前も残っていないけれど、いつから誰がそう呼び始めたのか「月のお姫様」として密かに語り継がれてきたという、一人の女性の物語でした。
彼女はまるで百発百中の占い師のように、人々の悩み、悲しみに苦しみ、そしてその原因を、的確に言い当てることができました。次々と人々が抱える問題を見抜き親身に寄り添ってくれる彼女は、その親しみやすい人柄も手伝って、周囲をいつも大勢の人たちに囲まれる人気者でした。その評判をついに「王様」までもが聞きつけて、彼女は「城」へと招かれることになります。
当時で言う「王様」も「城」も、今の王家とは別の存在です。この「王様」とは妖精のことで、現在は大妖精と呼ばれている者のことを指します。彼女の力は妖精に対しても変わらず作用し、「王様」と彼女は親しい間柄になりました。このことがきっかけとなって、妖精は人間に歩み寄るようになったのではないかと言われています。
しかし、彼女に関するそうした記載が見られるのは、執筆者不明の拙い歌や詩ばかりなのです。今ここで説明した出来事も、全て。
子供向けの童話か民謡のような筋書きであるため、当時流行した作り話に過ぎないと一蹴する人もいます。ですがこの歴史書の著者は、れっきとした史実であると考えているようです。「彼女を慕う者たちの綴った純粋な思いだけが幾重にも積み重なり、その生を後世に伝えているのである」といった文章で締めくくられていました。
私は体勢を戻して、二人に向き直ります。
「さっきの詩は、この人のことを言ってるの?」
「そゆこと。すっごく大袈裟に讃えてる歌よ。スズライトという国を興したってハッキリ証拠残ってるのはアタシの遠いご先祖様と大妖精様だけど、この姫様も関与してるんじゃないかって唱える説があるわ。それと、始祖の大魔導士イリーラ様を加えることもあるわね」
「けど、事実かどうかはっきりしないんだろ? もし事実だったとしてもこんな昔の話、本当にルミナと関係があるのか?」
「アタシはあるって思ったよ。半分くらい直感だけどさ。あんた自身はどうなわけ?」
「私は……」
ネビュラが冊子で自らを扇ぎながら問い、その視線を追うようにキラも私の目を見ました。室内に循環しているひんやりした風が、足元を吹き抜けていきます。
突然の話に戸惑う気持ちと、他人事ではないように感じる気持ちが、私の中ではせめぎ合っていました。私がスズライト家の屋敷にいること自体、有り得ないはずなのに。更に遠い世界の話が飛び込んできて、頭の処理が追いつかなくて。なかなか言葉が出てきません。
上手く言い表せずに口ごもっていると、私の返事を待たずしてネビュラが先に喋り出しました。
「まっ、姫様と同じか違うかなんてのは別にどうでもいいでしょ。それよりも、あんたのその『能力』は常時付けっぱなしの状態にある『体質』タイプっぽいけど、ちょっと不安定なんだろうね。じゃなきゃストレスがヤバい位にかかってたわ」
「えっ?」
「だってその力って多分、制御できない限り他人の嫌な感情が何もかも全部目に見えんのよ? どんなちっちゃなことでも。自分には全く関係ないことだろうが何だろうが。アタシなら嫌んなっちゃう」
「うーん……。そうかもしれないけど、私はそんなに嫌な風には感じないかな」
私の返事を受けてネビュラは目を丸くします。
「普通、その人が悩んでることって外からじゃ気付きにくいけど、それがわかるようになるんだもん。いいことだって、私は思うよ。 きっとこの創世紀のお姫様も、そう思ってたんじゃないのかな? まだちょっと、この人のことはよくわからないけどね」
全てを受け止めきれた訳ではありません。けれど、自分の中にあるらしいその力は、ネビュラが言うほど辛いものではないと直感的に思ったのです。
確かに、視界を覆い尽くすようなあの黒い霧は、決して感じの良いものではありませんでしたけれど……それだけの苦しみがその人の中にあるのだと思えば、視認できるのは良いことなのではないでしょうか。
「私は、自分のことがやっと少しわかってよかったって思うよ」
はっきりした答えは出せないけれど、ただこれだけを、笑顔で告げます。するとネビュラは再び好奇の色を目に浮かべながら、不意に上品な仕草でクスリと微笑みました。
「あんたみたいな子にはお似合いの力なのかもね」
「えっと、それは褒められてる、のかな?」
「褒めたつもりだけど? ん……? 言葉選びミスってた?」
ネビュラが首を捻る一方、キラは無言でこちらをじっと見続けています。
一見すると怒っているようにも見えるこわばった視線で、私がそれに気付いたとき、キラも口を開こうとしていました。しかしその直前に扉の動く音がして、彼の声はかき消されてしまいます。
「ネビュラ様、おられましたらお返事をして下さい」
「ん、リアスだ。こっちよ、こっち!」
「ああ、皆様。こちらにいらっしゃったのですね」
静かな書庫に、執事のリアスさんの声が通りました。私たちを捜していたようです。
棚の間を縫って、リアスさんがやってきます。変わらず目を細めた優しい表情をしていますが、顔色に少しだけ焦りが滲んでいました。彼に何も伝えないまま客間を出てきていたので、迷惑をかけてしまったのかもしれません。
「メアリー様が王城よりお戻りになられました。部屋でお二人をお待ちです」
「あ」
「あーそうだ忘れてた、二人はメアリーに話があるんだっけ。じゃ戻ろっか」
言われてハッとします。ここまで来た目的を、うっかり忘れかけていました。
キラの思いをメアリーへ伝えるために私たちは訪ねてきたのです。今は自分のことを考えている場合ではない、と、一度思考を中断させ頭を切り替えます。
一人でさっさと行ってしまったネビュラを見失わないうちに後を追いかけようとすると、キラに後方から呼び止められました。
「ルミナ。……その……、大丈夫か?」
「?」
振り返って見た彼は、不安げな顔をしていました。本棚が目元に影を落としています。私は言われたことの意味が理解できず、聞き返しました。
「大丈夫って、何が? キラこそ大丈夫? 緊張とか」
「お、お前に心配されることなんてない。もう覚悟は決まってる」
「それなら、早く行かなきゃ!」
そう促してようやく、彼の足が動きました。
キラはまだ何か言いたそうに見えます。けれど、これ以上は何も言ってきませんでした。
「……オレは想像するしかできないからな……。無理してないんなら、いいんだ」