58.My Heart(2)
職員室に入ってすぐのところに別の扉があり、小部屋に繋がっていた。以前からこの扉は見ていたけど、中に入るのは初めてだ。古めかしい木の壁と暗さが、校舎の端にひっそりと存在する塔の中の書庫とどことなく雰囲気が似ている。
あの塔は静かで、校舎で唯一気が休まる場所だ。誰も来ないことが多く、十人以上の人がいるのを見たことがない。読書に集中している人しかいなかったから、人の態度や感情も気にならない数少ない環境だったことをぼんやりと思った。
この部屋の中央にはテーブルを挟んで向かい合う低いソファが二つあり、談話スペースのようだけど、壁際には流し台、市販の丸いポットや茶葉の缶がある。先生たちの給湯室だろうか?
それにしては、人が使っている形跡をあまり感じない。反対側の壁の棚にはいつの物かわからないような古ぼけた書物が並んでいて、その一角だけなら資料室にも見える。
不思議と暑さはあまり感じないけど、窓が無かった。扉を閉めると一層暗くなる。ギアー先生が、扉の横に取り付けられている蠟燭スタンドに橙の炎を灯した。足元で舞い上がっている細かな塵と埃が照らされてキラキラと光る。
先生は流し台へ向かい、おもむろに茶葉を手に取って振り返った。
「ホットとアイス、どっちがいい?」
「え? いえ、その……」
「僕はホットにするよ」
「……えっと、じゃあ、同じで……」
扉の正面で立ち止まっていたら座って待つように促されたので、あちこちほつれてボロボロのソファに腰を下ろす。手をついたところにちょうど穴が開いていて、ふわっと柔らかい綿が手のひらをくすぐった。
湯気が立ち昇り、ハーブティーのような柔らかな香りが部屋中を満たしていく。
先生はテキパキと紅茶を用意すると、無骨な木製のローテーブルに二つマグカップを置いた。
「どうぞ。皆には秘密にね」
向かい側に座り、優しく微笑んで先生自身も紅茶を一口すする。眼鏡が真っ白に曇って、「おっと」と気恥ずかしそうに外した。
二人きりになっても、やはり、先生の心の声は全く聞こえてこない。すぐ近くにいて他に誰もいないのに、一言も聞こえないのはおかしかった。
懐から出した布で眼鏡の曇りを拭き取る先生の姿は、少々抜けていて隙がある。だけど、それも親しみと無防備を装った演技かもしれない。今、何を考えているんだろう。
「頼りない担任だと思うかい?」
「え……」
「僕には相談できないと思うなら、他の先生に頼んでくるよ」
先生はそう言って、眼鏡を戻しながら扉の方を見やる。私はハッとして声を上げた。
横顔が申し訳なさそうで、寂しそうだった。
「ち、違います……! そ、そんなわけじゃないです!」
「そう? だとしても、ルベリーさんの悩みに気が付けなかった先生には紛れもない落ち度がある。相談されなかったから、だなんて理由にならない。すまなかったね」
カップを置いて両膝の上に手を揃え、生徒の私に先生は頭を下げる。思わず私は腰を浮かせたけれど、うまく話すことができなかった。
悪いのは先生じゃない。裏切られるのを怖がって人を信じられない私のせいだ。ああ、今日はこんなことばかり。これじゃ何も変わってない。また今までの繰り返しじゃないか。
自分を守るためだけに人を疑うのは、もうやめなきゃ。心が読めないことなんて関係ない。今、私の目に映るこの姿が本物だと、信じるんだ。
「遠慮ならしなくていいよ、先生のことは存分に利用すればいい。そのために僕らはいるんだ」
顔を上げて、困り眉で笑う。マリーゴールド色の目は透き通っていて、温かみがある。だからその思いに嘘偽りはないはずだと、心の中で自分に言い聞かせた。
物音は遠く、部屋の中はシンと静かだ。校内でこんなにも「静か」なのは久しぶりだった。
「残ってもらったのは、改めてルベリーさんに教えてほしいことがあるからだよ。今日のことで怒ったりするつもりではないから、その点は安心して。怒られるべきなのはむしろ僕の方なのだから」
それは私が何も言わなかったから、私の話が下手だったから。その程度のことすらうまく口に出せず俯く私に、先生は言葉を続けた。
「ルベリーさんはよく話してくれたよ。ただ、今後の方針を決めるために、もう少し詳しく聞きたいだけなんだ。例えば、今まで通りみんなと同じ教室で授業を受けることが可能なのか。他のクラスや学校側にも報告をしていいのか。もしもそれが苦痛なら、その相談もしたいから」
「せ、先生は……私の話、わかって、信じたんですか」
「ん? 教師は生徒を信じるものだよ。嘘を言ってるとも思わなかった。ルベリーさんは無意味に嘘をつく人ではないからね」
にっこりと笑って、再び眼鏡を曇らせながら紅茶に口を付ける。息をつくと、白い湯気とレンズの向こう側で遠くを見るような目をした。
「それに、実を言うと、今回のようなことは初めてじゃない。人間にはたまにあるんだ。ある日突然、未知の力が目覚めるということが」
「未知の力……」
「妖精に愛された者の証などと言われることもある。けど、当事者にとっては迷惑な話だよね」
「………」
蝋燭に灯る橙色の炎の揺らめきが湯気と重なって、ぼやける。職員室を出入りする生徒か先生たちの足音がかすかに聞こえた。
「無意識に際限なく人の心を読んでしまう状態で、学校に来るのはつらいのではないかい? ルベリーさんはどうしたい? 何も無理しなくていい、嫌なら嫌と言ってほしい。僕にできることがあれば力を尽くすよ」
まるで幼い子供をあやすような優しい言葉で、私の瞳を覗き込みながら先生が尋ねる。
それは、こうして問いかけられるまでは考えが至ってすらいなかったことだったけど、自分でも驚くほどすんなりと、胸に答えが浮かんだ。
私は学校に来たいと思う。
もう一度あの教室で、やり直したい。
「つらいかもしれないです、けど……これまで通り、来ます。このままがいいです」
「本当に?」
「……と、友達が、いるから……」
不安に震える胸を押さえておずおずと口にすると、先生は少しだけ目を見張ったようだった。眼鏡のフレームに指先を当てる。
「僕以外の教員への事情説明はもちろん、誤解やすれ違いを極力減らすために、全校生徒にもルベリーさんのことを話すことになると思うよ。それも本当に構わない?」
「は、はい」
この場で急いで決めることはない、よく考えてほしい、と先生は言うけど、きっとそれは私には逆効果だ。時間を置いて一人になってしまったら、私はまた不信感と恐怖に引きずり込まれてしまうだろう。
だから、分けてもらった勇気と希望の光が鮮やかなうちに、心を決めてしまおう。
楽な道じゃないことはわかっている。泣きたくなったことも逃げたくなったときも、実際にこれまで何度もあった。ついさっきだって、教室から逃げてきてしまったばかりだ。
でも、悪いことしか起こらないわけじゃないから。
そう教えてくれた人のことを信じたいから。
だから、せめてそれを確かめるまでは。
ぐっと唇を結んで顔を上げると、ギアー先生は目を細めて静かに頷いた。
「うん、わかった。先生たちにはこの後、僕の方から話すよ。ありがとう」
なぜお礼を言われたのか、理由が分からず疑問に思う。
先生はカップを持ち上げながら話し始めた。
「先生としてはね、ルベリーさんのことは皆に話すべきだと思っていたんだ。そうなれば半霊族を――ルベリーさんのような事例があることを皆に知ってもらえる。教科書の文章を読むのではなく、自分の身をもって知ることができる。それは皆にとっていい機会だろう。生徒だけじゃない、教員たちにも。でも、これは僕の都合だから。気を悪くしたのならごめんよ」
「い、いえ……」
嫌と思ったわけではないけど、聞いていて落ち着かない気持ちにはなった。思ったより大ごとになってしまうだろうか。「何かあれば僕が責任を持って怒ったり怒られたりするから、大丈夫さ」と笑って言い放ちながら、ギアー先生は再び紅茶を飲んだ。
私も、ずっと置いたままだったマグカップに手を伸ばす。中はマリーゴールド色で、先生の瞳の色にそっくりだ。思えば、部屋を照らす蝋燭の炎も、眼鏡の奥で光る瞳によく似ていた。
「ルベリーさんの方から、何か僕に言っておきたいことはあるか? 僕に聞きたいことでもいいよ」
「え……えっと……」
「僕の用はもう済んだよ。いや待てよ、わざわざ言わなくても僕の気持ちは筒抜けなんだったね?」
「………」
先生は平然としている。
マグカップから漂う優しい香りを感じながら、私は取っ手を持つ手に力を込める。
思い切って尋ねた。
「……せ、先生は……私といて、嫌じゃないですか? 心を覗かれること、平気なんですか? 先生の気持ちは……わかりません。……私、先生の心の声は、聞こえないんです。他の人は、ほとんどみんな聞こえるんですけど……」
「それはそれは。不思議なこともあるものだ」
返ってきたのは、その一言だけだった。
意外なほどあっさり、軽く答えるものだから、私の方が戸惑う。
「え……あ、あと、パルティナ先生も、多分そうだと……思います。なんでかはわからないですけど……」
「ほう」
先生は、目を丸くして細かく何度も頷いた。単純に感嘆しているようだ。大人の男性なのに、その仕草は好奇心旺盛な少年のようで、なんだか少し楽しそうに見えた。
先生自身も、原因や理由に心当たりはないらしい。自分でも調べてみよう、と言ってこの話は区切られた。
もう一つの問いにも答えてくれた。
「心を読まれて嫌じゃないのか、って話だったね。どうも僕の心はわからないみたいだけど、その件は一旦置いておくとして。ルベリーさんは、人の心が読めるからといって、それを悪いことに利用しないだろう。不可抗力だ。そうわかっているから問題ないよ」
「でも、私が何もしない保証なんて、どこにも……」
「ふむ……では、こう言ったらどうかな。つまり僕はルベリーさんを信頼しているんだ」
さらりと、先生は述べる。でも私はその優しい言葉を聞いたとき、無性に胸が苦しくなった。
良いものも悪いものも、色々な感情が渦となって押し寄せる。
嬉しくて。
悲しくて。
不可解で羨ましくて情けなくて。
喉が詰まる。温かい紅茶を、飲むことができない。
「先生も……エレナさんも、どうしてそんなに……」
口に出すと共にぽろぽろと涙が溢れ、手の上に落ちていく。紅茶の上にも何度も波紋を作り、映り込んでいる私の顔はぐにゃりと歪んだ。
私が人の言葉を信じきれないのは、心の声が聞こえてくることだけが理由じゃない。自分のことが嫌いで、自分にそんな価値があると信じられないから。
だから、信頼を向けられても、他でもない私自身がそれを信じられない。
どうして私よりも私のことを信じられるの?
それだけじゃない。私は先生を信じようと決めた。信じたいと思った。だけど、先生はわざわざそんな風に意識しなくたって、当たり前のように私を信じることができるんだ。
どれだけ頑張ったところで、私のそれは他者の真似事に過ぎない。偽物だ。「本物」の人たちには敵わない。自分の惨めさを突きつけられた。
私は先生やエレナさんのようにはなれない。
太陽になんて、なれやしない。
「太陽になろうとしなくたっていいんだ」
突然の、独り言のような先生の呟きに、ビクッと心臓が震えた。見開いた目からカップへ零れ落ちた涙が、一際大きな音を立ててぴちょんと跳ねる。
心を読まれたかと思った。
先生が神妙な顔つきで紅茶に口を付ける。
「太陽の光を反射して月は光る。月自体が光を発しているのではない。でも僕らはそんな月の光を見上げて、美しいと感じるね。それは、見ている者にとっては太陽も月も同じ光であることに変わりはないから。本物だとか、偽物だとか、そんなことを気にしているのは自分自身だけではないのかな?」
透明なレンズの向こう側で、瞳が発光した。
マグカップが口元を隠す。
授業をしているときよりも真剣な眼差しだった。
「……そう唄った、プレリュードという詩人が大昔にいたんだよ。教科書には載っていない、記録も実績もほとんどない、無名の詩人だけどね」
最後の一滴をゆっくりと流し込むと、手を下ろして柔らかに微笑む。この半年間で、見慣れた表情。
今の鋭い光は、幻?
「誰かの光があって輝ける、あの月のような柔らかな光を、僕は好ましく思うよ」
空になったマグカップを静かに置き、先生は居住まいを正した。心を見透かすように、目尻に涙を浮かべたままの私へ真っ直ぐ視線を向ける。
部屋のどこにも無いはずの時計の針がカチリと鳴った気がした。
「ルベリーさんはどうしたいんだ?」
「………」
「『しなきゃいけない』ではなく、『したい』ね。と、言っても、もうルベリーさんの中に回答はあると僕には見えるけど」
マリーゴールド色の紅茶に映った自分と見つめ合う。
私のしたいこと。私の気持ち。しなきゃいけない、と気負わず、心のままに思うこと。
それは決まっている。先生には伝えていた。既に言葉に出していたことだ。
大切な友達のいる教室にまた行きたい、と。
その為に、私は。
紅茶の温もりが、手のひらを温める。固く握っていたはずの両手はいつの間にかほぐれていた。
ようやく味わうことのできたホットティーは少しぬるくなっていたけど、その温度がかえって心地よく胸に沁みわたる。
ほのかな苦味が優しく心に溶けていった。
最後に一つ、と、ギアー先生は私に宿題を与えた。
「ルベリーさんにとって幸せとは何か、考えてみてくれ。今すぐ結論を出せとは言わないし、ルベリーさんの主観で構わない。だから、なるべく具体的な状態を想像してみて。こうなりたい、こうありたい、という理想をね」
私はまだ何も答えられなかったけど、それでいいと先生は繰り返した。大事なのは、自分で考え続けることだと。
「力に目覚めて『体質』が変わった人が、目覚める前の状態に戻ったという話は聞いたことがない。心の声が聞こえるというその力も、恐らくなくなることはないだろう。それが自分だと受け入れて、ずっと付き合っていくしかない。その上で、ルベリーさんの幸せとは何なのか考えるんだ」
立ち上がった先生の後ろに続いて、扉に向かう。先生がドアノブを捻ると開放的な涼風が前髪をなびかせて、眩しい光が視界に飛び込んだ。
「今日は――いや、今日までよく頑張ったね、ルベリーさん」
目を細める私の横で、扉を押さえながらギアー先生がそう言った。見上げると先生の髪も風に吹かれていて、瞳は星が散りばめられたように煌めいている。
「僕らはいつだって皆の傍にいるから。それを信じていて」
これまでの私なら、きっとこの言葉を疑わないことはできなかっただろう。
今は違う。
素直に受け取れる。
不思議なくらい、嘘みたいに、晴れやかな気持ちだ。
開けた窓の向こうに、青々と茂る木々と、白く光を放つ太陽が見える。それに背を向けて、職員室を出る。
真っ直ぐ伸ばした背中を、確かに見守られていた。
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