61.跳ね回るライムグリーン(2)
高音はまだ廊下を突き抜けています。
「ギアー聞いてよ! もうサイアクなのー!」
「どうせまた、君が先に吹っ掛けたんだろうに……」
私は通学鞄を手にして帰ろうとしているところでしたが、その甲高い嘆き声に足を止めました。
帰りのホームルームの間、パルティナ先生は生徒たちの目を直視せず、いつもよりもずっと早口で喋っていました。そして、背後に絶対零度の風を吹かせた鋼鉄の笑顔で、あらゆる問いを揉み消して早々にいなくなってしまったのでした。
「ねえセンセー、さっきの」
「何か?」
「……さ、さっきの、ええと……段ボール、看板に使うのであのまま置いといてください……」
そんなやり取りを、一度だけ垣間見ることがありました。
放課後になってパリアンさんの声が再び聞こえてきたのは、そう遠くない場所でした。曲がり角を覗き込んでみると、階段の正面の窓際で、彼女とギアー先生が立ち話をしています。
私を見つけたパリアンさんはブンブンと手を振って私を呼び、ギアー先生は困った顔で振り返りました。
「ルミナちゃーん!」
傍まで近寄っていき、ぺこりと軽く頭を下げます。
「えへへー、さっきぶりなの」
「ん……ああ、シャツの受け取りに行ったときか」
「そうそう! なの!」
疑問符を浮かべたギアー先生へ、ニコニコと繰り返し頷くパリアンさん。
「先生たちとも友達だったんですか?」
「う、うぅーん……友達……ギアーはともかく、パルティナは友達じゃないけど。でもまあ一応、そんなところなの」
「びっくりしちゃいました。あんな先生見たことなかったので」
「パルティナは猫かぶりなのー」
「生徒の前ではやめてやりなよ。彼女にもイメージというものがあるのだから」
「アンタもなかなか言ってると思うの」
「おや」
そう突っ込みを入れられたギアー先生はとぼけたように肩をすくめ、丸眼鏡のつるを摘まみました。
ギアー先生によると、二人の先生とパリアンさんは古い友人とのことでした。三人とも学生時代の同窓生だという話です。彼女たちが顔を合わせる度に口喧嘩をするのは昔から全く変わらないことだと、ギアー先生は苦笑いします。
開いた窓の遠く向こうで、カラスが間の抜けた声で鳴きました。下校する生徒たちの笑い声がささやかにこだましています。
「ところで……ルミナさんは『先生たちとも』と言ったね? 他に誰の話をしたんだ、パリアン? 僕らの友人だと初めから名乗ったのではないんだろう?」
「う。えっとー、マリちゃんだよ? なの」
「マリさん……」
「あっ! そうです! 私、スズライトに住んでた頃のお母さんの話を聞きたいって思ってたんです!」
私は鞄の持ち手をギュッと握り直して、パリアンさんへ期待の眼差しを向けました。
一方、何故かパリアンさんは叱られた子供のようにしゅんとして、控えめな上目遣いでギアー先生を見上げています。
光るレンズの奥で、先生の瞳はじっと静かにパリアンさんを凝視していました。それはパルティナ先生の見せていた氷点下の笑顔と、どこか似通っている気がしました。
声を上げた私の方を先生はちらりと見て、
「それは、ルミナさんの母親の名前かい?」
「あれっ? なんでギアー知らないの? そんなわけないの。アンタは誰よりも――」
「僕は知らないよ?」
「えー……なんでなの。せっかく――」
「何でも何もないだろう。知らないものは知りません。それじゃあ僕はそろそろ行くから。ルミナさん、あまり長く残りすぎないようにね」
「あっコラ、ちょっと!? 話はまだ終わってないのーっ!」
声を張り上げられても、先生は「こっちだってまだ仕事中だよ」と足を止めず階段を降りていってしまいました。ぷくっと頬を膨らませ、パリアンさんはむくれます。遮られた言葉の先で何を言おうとしたのかはわからないままでした。
「ギアー先生もお母さんのこと知ってた……?」
「んんー……そのハズだと思ったけど……本人がああ言ってるから違うみたいなの。勘違いだったの」
そう答えつつ、パリアンさんも首を捻って納得していない様子でした。
ギアー先生のことも少々気になりましたが、私はそれ以上に母の話が聞きたかったので、パリアンさんに一歩近寄ります。
けれど、彼女は気まずそうな目で私を見下ろしました。長い金髪を揺らし、ふるふると首を横に振ります。
「さっきはちょっぴり嘘ついちゃった、なの。ホントはアタシ、別にマリちゃんとはお友達でも何でもなくって、ほとんど話したことないの。だからお話できることは全然無いの、ゴメンね」
「えっ、そう……なんですか」
「けど一個だけあるの。教えられること」
凛とした声でした。
パリアンさんは左手を頬に添え、しっとりと落ち着いた微笑みで私の目を見つめ、内緒話をするような仕草で顔のすぐ傍まで身を屈めます。
不意に鼻先をくすぐったのは、新緑の香り。
「あのね、アタシのおねーちゃんもみんなも、ずっとずぅっと、あの子のことが大好きなの」
窓の外から日光を受けて、瞳のライムグリーンが淡く煌めいていました。
口元が綻んでいく様は、引き出しの奥に仕舞っていた大切な宝箱をそっと開けるかのようです。
「ルミナちゃんは本当にあの子とそっくり……奇跡みたいなの。ううん、きっと奇跡なの! だからね、アタシは今日とってもハッピーなの!」
「え……?」
「また会ったらお話しよーね、ルミナちゃん! 名残惜しいけど、アタシもそろそろお仕事に戻らなきゃなの~」
「は、はい。えと、ありがとうございました」
パリアンさんはニッコリと目を細めました。瞼に乗ったアイシャドウの光が星屑のようでした。
彼女が私の横を通り過ぎて去っていくときに再びふわりと舞った優しい香りは、恐らくパリアンさんが付けていた香水のものだったのでしょう。
豊かな森の木漏れ日が身を包む、そんな光景を想起させるような香りを彼女は纏っていました。