創作小説公開場所:concerto

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[執筆状況](2023年12月)

次回更新*「暇を持て余す妖精たちの」第5話…2024年上旬予定。

110話までの内容で書籍作成予定。編集作業中。(2023年5月~)

67.pianist(2)

 病院の場所を聞いて、翌日の朝一番に家を飛び出した。風を切って空を飛び、空気の綺麗な港町の”丘の上”にあるという真っ白な建物を目指す。
 一ヶ月も前?
 入院なんて、聞いてない! あんなに手紙くれてたのに、そんなの一度も書いてなかったじゃん! どうして教えてくれなかったの!
 頭の中はそんな思いで埋め尽くされていた。
「クレアっ」
 病室に駆け込む。
 上体を起こしてベッドに座り、窓の方を見ていたクレアは、ワタシの慌ただしい足音に気付いて振り向くとパッと嬉しそうな顔をした。
「! ミリー!」
 いたっていつも通りの調子で、血色がいい。
 サイドテーブルに空の食器が並んでいる。膝の上には楽譜の本が開かれていて、部屋の隅に置かれた蓄音機から落ち着いた音楽が流れている。
 ワタシはドアの前で息を切らしたまま啞然として立ち尽くした。
 クレアが苦笑する。
「……その感じは、おばさんが大袈裟に話しましたねー?」
「家で、一人のときに、意識がなくなってて……病院に運ばれたって……」
「たまたまタイミングが悪かったのー。倒れたのもその一回だけだよ。診てもらったらただの貧血だっだし、すぐに退院できるって話だから手紙には書かなかったんだ。なんだか逆に心配かけちゃったみたいでごめんね。でも、もうこんなに元気ですのでっ」
 息を整えながら尋ねると、クレアはゆるく握った拳を体の前にシュシュッと突き出して元気そうな様子を見せた。
「この辺ってちょっとした高級住宅街なんだって。綺麗な町だよー。ここの窓からちょうどね、港と海が見えるんだ! 宿屋みたいないい眺めだよ、ミリーもこっち来て見てみなよー」
 その笑顔も手招きする仕草も自然で、呑気だ。ワタシは大きく安堵の息をつき、開いた窓の傍まで歩いた。クレアの言った通り見晴らしがよく、朝日に光る雄大な海がキラキラしている光景が見えた。
 しばらく話をして、帰り際、「何かあったらちゃんと教えるように!」と念を押す。
 クレアは笑って手を振る。
 もう一度「ごめんね」と囁くような小声で謝り、下ろした手をぎゅっと握っていた。

 

 ――まだ少し検査をしましょう、って話になっちゃいました。しばらくは、病院のお世話になりそうです。
 ――暇だから家からキーボードを持ってきてもらって、ミリーのレコードの曲を練習しています。そしたら、隣の病室のお爺さんから少し苦情が来ちゃいました。
 ――でもそれがきっかけで、そのお爺さんとは仲良くなりました。最近の若いアイドルのことは知らないけど、ミリーと同じで歌うのが好きなんだって。だから、ミリーの凄さをいっぱい教えています。今度、三人でお話できるかな。
 
 夏休みの後に届いた手紙にはそういったことが書かれていた。
 ワタシはフリーの時間のほとんどをクレアのための時間にして、なるべく沢山お見舞いに行った。一人で寝てるだけなんて、退屈に決まってるから。”丘の上”の病院は実家よりもスズライトに近いところだから、会いに行くのはこれまでと比べて楽になっていたし。……それを喜ぶのは駄目なことだけど。
 仕事場と、学校と、病院と、寮の往復。体が一つじゃ足りないくらい。多分あの頃が、一番大変だった時期かも。

 

 病室に入ったらまず、折り畳み式の小さな譜面台をベットの横に立てて、隣の丸椅子に座る。クレアはベッドから手を伸ばして、壁に立てかけた小さなテーブルとキーボードを布団の上にセットする。
 クレアは伴奏を。指先だけを躍らせるようにひそやかに鍵盤を叩いて、奏でる。
 それに寄り添うように、ワタシはメロディを。声量はかなり抑えめにして口ずさむ程度で、歌う。
 月日が経っても、場所が変わっても、ワタシたちは昔と同じように演奏会を開いていた。
 たまに看護師さんや隣の病室のお爺さん達が観客にやってきて、二人のものだったコンサートはちょっとだけ賑やかになった。
 毎日は大変だったけど、とっても楽しかったな。

 

 入院して以来、クレアがベッドから降りたところは見たことがなかった。

 

 あの頃にはもう動けなかったのかもしれない。
 検査入院だから心配しないで、と聞いていたけど。どこも悪いようには見えなかったけど。いつだって前向きで曇りない笑顔を絶やさなかったけど。
 でも確かめるのは怖くて、できなかった。たった一言口にするだけで、この幸福が一気に崩壊してしまいそうな不安があった。
 だって、検査にしては長くって。どこも悪くなさそうだけれど、その肌は病的なまでに白くなっていて。笑顔に曇りはないけれど、その瞳の輝きは昔より遥かに弱々しくって。
 いつまでも、退院する様子がなくって。
 その現実を直視するのが怖くて、怖くて。
 このままでいたい、と目を背けて、気付かないフリを続けた。
 夏は終わり、秋も過ぎ去ろうとしていた。

 

 毎年最後の一ヶ月は、ワタシたちにとって特別な月なんだ。
 それは月の始めにワタシの誕生日があり、月の終わりにはクレアの誕生日がやってくるから。その二日の中間にある年中行事の、感謝祭の夜のことも楽しみだけど、ワタシにとっては二人の誕生日の方が重大イベントだった。
 そんな去年の年末は、大きな岐路。
 あの日クレアがワタシに贈ってくれたのは、一生の思い出になるような素敵なものだったんだよ。何だと思う?

 

 ――最後に一つ、お願いです。お祝いをしたいので、誕生日はわたしのところへ来てください。
 ――今年もプレゼントを用意しています。
 ――直接会わないと渡せないものがあります。

 

 クレアのことはマネージャーさんも知っていたから、事情を説明して時間が取れるように予定を組んでもらっていた。
 仕事だと嘘をついて放課後の掃除をサボり、冷たい風に頬を叩かれながら、夕焼けを背にして”丘の上”の白い病院へ向かっていく。かじかんで赤くなった手に力を込めて、箒の柄を固く握りしめる。
 病室の中で、クレアはぼうっと窓の外を見ていた。膝の上にキーボードが置いてある。
 しんと静かに、雪の降り積もる銀世界のように、部屋は静まり返っていた。カーテンの隙間から柔らかく差し込む夕日に彼女の空色は染め上げられていて、そのまま夕闇へ溶けて消えてしまいそう。儚さと美しさに息が詰まり、ワタシはすぐに声をかけることができなかった。
 ステージに立つ前みたいに、胸元に手を添えて深く息を吸う。そうして心を落ち着けてから、声をかけた。クレアはゆっくりと振り向いた。
 遠慮がちな微笑を浮かべる。
「わがままなお願いしちゃったね。忙しいのにごめんね、ミリー。どうしても、おめでとうって直接言いたくて」
「平気、平気! 今日はもう時間ギリギリまでいるからね? えへへっ、今年のプレゼントは何かな~?」
「そ、そこまで期待されると恥ずかしいよ。……本当に、大したものじゃないんだ」
 丸椅子に腰を下ろしながらちょっぴりからかうと、もぞもぞと体を揺らした。
「今のわたしに何ができるかって、ずっと考えて……学校の友達やファンの人たちのプレゼントに比べたら、これは全然つまらないものかもしれない……でも……わたしにはこれしか……」
 クレアはいつになく弱気に背を丸め、眉を下げて目を閉じる。
 珍しい様子だった。クレアはいつだって自分の意思をしっかりと持った子だと思っていたから。
「勿体ぶられるとますます気になっちゃうよ。……ねぇ、ワタシはクレアの気持ちがこもったものなら何だって嬉しいと思うよ。お芝居の台詞みたいだけど、本気。だからほら、早く欲しいな?」
 椅子に手をついて、グッと身を乗り出す。
 クレアは伏せていた瞼をそっと開いた。
 透明に澄んだ瞳が水面のように揺れている。
 小刻みに震えていた唇が止まって、一本に引き結ばれると、神妙な顔つきになった。
 小さく開いた口から息を吸い、少し止めて。
 膝の上の鍵盤に指が下ろされる。

 
「……聞いてください」

 

 その一挙一動が今も頭に焼き付いているんだ。
 眩い夕焼けの光に包まれた姿が、まるで魔法の儀式をするように神秘的だった。
 もしかしたら、あれは本当に魔法だったのかも。

 

 始まりは、国中の誰もが知るポピュラーなバースデーソング。
 その短い一曲が終わった後も、左手は落ち着いたリズムを刻み続けた。
 滑らかに主旋律が移り変わり、紡がれていく。

 

 それは優しいメロディの、クレアが作った曲だった。
 ワタシがクレアに音楽を届け続けたように。今度はクレアが、自分で一から組み上げた音楽をくれたんだ。

 

 肘から下以外をほとんど動かさず、険しく張り詰めた必死な横顔で鍵盤を叩き続けるクレア。最後の一音が消えても、その表情はほぐれなかった。緊張とか、不安とか、そんな気持ちが混ざり合っていっぱいだったんだろう。
 クレアは鍵盤から手を離し、薄く開けた唇から息を長く吐き出した。
「……これが、楽譜。題名は無いんだけど……」
 おずおずと布団の下から取り出されたファイルを受け取る。中に入っていたのは、ペンで手書きされた数枚の楽譜。そこでワタシはようやく、今の曲がクレアの作品だということを理解した。
「クレアが……書いたの? これ全部?」
「うん。ご、ごめんねっ、やっぱり変だよね、こんなのが誕生日プレゼントだなんて、自己満足で思い上がりで……」
「なんで!? 超スゴイじゃん!」
 クレアの遠慮を吹き飛ばすように、ここが病院であることも忘れて声を張り上げる。クレアが驚いた顔でこっちを見た。
「何も変じゃないし、嬉しくないわけないよ! ワタシはクレアの大ファンだもん!」
 ワタシは真っ直ぐにその目を見つめ返して、ファイルをぎゅっと大事に抱きしめる。
「今日一番のプレゼントだよ、ありがと!」
 そんなありふれた言葉しか言えないのがもどかしい。
 初めて会ったその時からずっと、ずっとワタシは、クレアのピアノが奏でる世界に惹かれ続けていたんだ。この日のためだけに、ワタシのためだけに書かれたクレアの曲だなんて、宝石同然の宝物だった。
「もう一回弾いて!」
「えっ!?」
「アンコール! ね! お願い!」
 楽譜を抱いたまま懇願すると、クレアは戸惑いながらも恥ずかしそうに頬を綻ばせた。
 何回も、何回も弾いてもらいながら、重ねるように口ずさむ。煌めく光を瞳に映し、柔らかな温もりに心まで包まれる。
 その陽だまりの中は幸せで満たされていた。

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