創作小説公開場所:concerto

バックアップ感覚で小説をアップロードしていきます。

[執筆状況](2023年12月)

次回更新*「暇を持て余す妖精たちの」第5話…2024年上旬予定。

110話までの内容で書籍作成予定。編集作業中。(2023年5月~)

68.pianist(3)

 夜、自室のベッドの上で楽譜を繰り返し捲って、キーボードの音色を思い出しながらハミングする。最後の一枚に貼られたドット柄の付箋と「誕生日おめでとう!」のメッセージが目に入る度に、嬉しさで胸の奥がこそばゆくなった。
 三週間先のクレアの誕生日のお返しを何にするか、決めた。
 この曲の歌詞とタイトルを作って、歌にしてクレアへ届けよう。
 それで、もしクレアから了承が得られたら、ライブのステージでも歌ってみたい。マネージャーさんにもこの楽譜を見てもらって、そのつもりで話を進めていてもらおう。クレアは恐縮するだろうけど、きっと喜んでくれるはず。
 それこそが今のワタシにできる最高の贈り物だと、微塵も疑わなかった。
 
 今もまだ後悔してるんだ。
 あれは間違った選択だったんじゃないかって。たった一日の特別な日のために他の時間を全てなげうつような選択が、本当に正しかったのかって。
 クレアの誕生日には、ライブの予定が重なっていた。年末の特別なライブで、複数のアーティストと合同だったから、どうしても日程をずらすことはできなかった。出演時間がさほど長くないのが救いだった。
 日中はまずライブを完璧にこなすこと。それが終わったら、真っ直ぐクレアの元に向かうこと。どちらか一方だけじゃない。両方大切で、両方とも成功させたかった。
 ずっとその日のことだけを考えて、三週間の全てを注ぎ込んでいた。
 彼女のお見舞いにも行かずに。手紙も出さずに。

 

 陽が沈み、三日月も厚い雲に隠された、真っ黒な空の下。
 カーテンの閉ざされた病室に、クレアが眠っているベッドを取り囲むように人が集まっている。
 その最も近くにうずくまって、嗚咽し、嘆いている二人の男性と女性には見覚えがあった。
 クレアの両親。
 異常な空気を嫌でも感じて、立ち尽くす。
 扉の傍に立っていた若い看護師さんが、華やかなステージ衣装の上にダウンコートを羽織っただけの格好でやってきたワタシに気付いて振り向いた。院内で「演奏会」を開くことを許してくれて、よくクレアを見ていてくれた、顔見知りの人だった。
 彼女が脇に避けて開いた道を、ふらふらとおぼつかない足取りで歩いていく。倒れないように一歩ずつ踏みしめながら、ゆっくり近づいていく。
 クレアの顔が見えるはずのところに真っ白な布がかけられているのを見て、頭から冷水を被ったみたいに、全身が冷えていった。
 隣で共に眠るように、布団の下から空色のノートがはみ出ている。ワタシは呆然としたまま、ぴくりともしないクレアの傍らからそれを抜き取り、かじかんで真っ赤な手で中を開いた。楽譜用の五本線が引かれたノートだった。
 一ページ目から鉛筆で手書きされているのは、ワタシに贈ってくれたあの曲だ。ワタシのもらったものは綺麗だったけど、こっちはあちこちに消し跡や修正の形跡が残っている。続けて捲ると二曲目があった。でも、それは中途半端なところでぷつっと途絶えている。
 最後のページに三つ折りの紙が一枚挟んであって。
 開いた拍子に、ひらひらと舞いながら床に落ちる。
 飛びつくようにしゃがみ込んで、広げた。
 

 ――きっとこれが最後の手紙になります。

 

 震える字で、そんな書き出しで綴られていた。

 

 ――ごめんなさい。一緒に大人になることはできないと、入院するよりも前からわたしはわかっていました。
 ――ミリーには笑っていてほしかった。だから、本当のことが言えませんでした。
 ――自分の体のことを知ったとき、わたしはピアノを辞めるつもりでした。ピアニストになりたいという夢があったけど、それが叶うのはありえなくて全部無意味なんだって、未来が真っ暗に閉ざされたようでした。
 ――でも、その暗闇から助けてくれたのは、ミリーです。
 ――ミリーが歌ってくれるから、わたしのピアノを好きだと言ってくれたから、わたしはピアノを楽しみ続けることができました。
 ――本当にありがとう。あなたは、わたしの太陽でした。
 ――わたしは、ミリーの歌にいっぱい元気をもらいました。これからもずっと、ずっと、応援しています。
 ――わたしの大切な友達 ミリーへ。

 

 温かな、眩しい言葉が並んでいて、視界がぼやけた。疑いようもないくらいクレアの想いが込められた文面に、ぽたぽたと雫が落ちてシミが滲んだ。
 胸の中で繰り返す。
 ワタシは太陽なんかじゃない。それはクレアにこそ似合う言葉だと。
 ワタシにはクレアこそが、青空に輝く太陽のような存在だった。
 後悔に押し潰されて、体に全く力が入らない。肩に提げていた鞄がするすると滑り落ちて、中身が散らばる。
 歌詞を手書きした楽譜がバラバラになって、灰色の冷たい床の上に広がった。
 クレアに内緒でこの歌を完成させるため、ワタシはただでさえ少なかったオフの時間を全て……これまでならクレアへ会いに行っていた時間も全て、作詞に費やしていた。
 全部無駄に終わったんだ。
 何がお礼だ、サプライズだ。他にするべきことが沢山あったはずなのに。
 届かなかったプレゼントに意味なんてない。
 陽の落ちた病室はどこよりも寒くて、心ごと凍えてしまいそうだった。

 

 クレアと会ったのは、昨年のワタシの誕生日が最後になった。
 あの三週間、クレアは一人で何を思っていただろう。どんな気持ちでこの手紙を遺したのだろう。
 ワタシが届けられなかったのは、この一曲だけじゃない。
 一つ一つのフレーズに込めたワタシの想い。拙い詩ではとても表現しきれなかったワタシの想い。
 一体どれだけ伝わっていただろう。
 伝えられていただろう。

 

 翌日、年内最後の営業日だった事務所へ事前連絡も無しに一人で赴いた。楽譜を両腕に抱き、泣き腫らしたボロボロの顔を深々と下げる。
「この曲を、ワタシの歌としてリリースさせてください。お願いします。そのためなら何だってします。ワタシには、何ができますか」
 ワタシの願いを……ううん、願いと呼ぶにはあまりにも独りよがりなワタシのわがままを、大人たちは聞き入れてくれた。
 こんなことをして何になるんだろう? と自分に問う。
 きっと何にもならない。
 そうわかっていても、歌わずにはいられなかった。

 

 クレアの楽譜を基に音を付け足し、編曲し、出来上がったのは優しいバラード。クレジットの作曲者の欄には、アレンジを担当してくれたプロの名前に続けて「+C」と添えさせてもらった。
 その間、ワタシは寮室にこもって歌詞を書き加えていた。もうとっくに新年のお祝いムードは薄れ、冬休みも終わっていたけれど構わず、寝る間も惜しんで一心不乱にその曲と向き合い続けていた。
 一旦家に戻ってきて休んだらどうかと、家から一度手紙が送られてきた。それによると、クレアの両親にも気遣われていたらしい。
 でも、止めなかった。わがままを通した。
 そして、とうとう社長から正式にNGを言い渡されたんだ。今着手している「それ」が済んだ後は当分の間働かせない、って。
 こうして「ピアニスト」という曲は異例のスピードで完成し、その一曲を最後にしてワタシはステージを降ろされた。
 それきり、一度も歌っていない。

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