75.世界はウソに溢れるが故に(1)
それからまた二、三日が経過して。エレナたちは掃除のために音楽室へやってきました。
扉を開けると、窓に暗幕が取り付けられていて真っ暗です。熱がこもって少々蒸し暑く、生ぬるい空気が廊下へと流れ出てきます。
「わ、暗! 開けよ!?」
「閉めっぱなしで行っちゃったみたいね。ずっとかしら、熱くなってるじゃない」
「………」
まずミリーが即座に窓へ駆け寄っていき、シャッと勢いよく暗幕を開きました。下から臙脂色のカーテンが現れて、隙間から夕陽の明かりが差し込みます。続いてエレナも隣の窓を開け、その後ろをシザーが緩慢とした動きでついてきました。
三人で全ての窓を開けて涼しい風を入れると、ロッカーから箒を手に取ってそれぞれ掃除を始めます。
学園祭の当日には、音楽室はお化け屋敷として使われる予定でした。普段は部屋の隅には何も置かれていませんが、現在はシーツの詰まった段ボールや何台もの長机と椅子が寄せてあります。それらを避けて床を掃きながら、ミリーとエレナは雑談をしました。
「お化け屋敷の準備って、何かちょっと特別な感じしない?」
「そうね、暗くしたり物陰に仕掛けしたり。うふふ、イタズラの正当化だわ♪ わたしはお化け役もやってみたいわね」
「ワタシもー! 音楽室使うのはレルズ君のクラスだったよね、いいなぁ」
「レルズって脅かされる側の方が似合うわよね?」
「あはは、そうかも。夏休みの肝試しのときも――……」
「………」
シザーは二人に背を向け、会話には混ざってきません。そんな彼の様子をミリーは横目に見つつ、声量を少し落としてエレナに一歩近寄りました。
「ね、こないだのこと、本当にありがとね。エレナが色々頑張ってくれたおかげだよ」
「え? ああ、あの手紙の話?」
聞き返しながら、エレナもシザーを一瞥しました。彼は二人の方を見ずに掃除を続けていて、話を聞いていないような様子です。ミリーに視線を戻します。
「どうにかなったみたいで良かったわ。でも、かなり強引な日程よ。大丈夫?」
「平気、平気! わがまま言ったのはワタシの方だもん、これくらい余裕だよ!」
「さすがね。わたしも楽しみにしてるわ」
「掃除終わったら職員室行って、先生にもお礼言ってきたいんだけど誰先生に言えばいいかな?」
「学校に話を通して、許可もらってきてくれたのはギアー先生よ」
「そうだったんだ!? じゃあさっき教室で話せば良かったんじゃん!」
二人だけの話をしながら、ミリーは視界の端に映るシザーの方にもちらちらと意識を向けます。シザーは一言も喋ることなく、離れた場所のグランドピアノ付近で手を動かし続けていました。その後ろ姿はどこか苛立ったように、不機嫌そうでした。
「ゴミ捨て、代わりに行ってもらってもいいかしら?」
掃き掃除を終えて、腰の高さほどのゴミ箱を覗き込んだエレナが二人に呼びかけます。中身が溜まっていたようです。
学園祭の日まで連日、エレナの放課後は実行委員会の活動予定が詰まっていました。それは二人も理解していることでした。
すぐにシザーが黙って傍にやってきて、ガコンと軽々しく持ち上げます。
「ありがと、お願いね」
「ワ、ワタシも手伝うよっ」
「俺一人でいい」
つい申し出てしまったミリーでしたが、シザーは振り向かずにぴしゃりと制しました。エレナは彼の本当の顔を知っているため、何も咎めません。ただ静かな口調で、身じろぎしたミリーに慰めるような微笑みを向けます。
「任せましょ」
「……うん」
ミリーは寂しそうに目を伏せて後ずさりました。彼女自身も、自分が間違えたのだということはわかっていました。
一人で先に音楽室を出ていく彼の背中を見送ります。
その顔の向きを変えずに、隣で同じように立つエレナに問いました。
「ねぇ、シザーってさ……あれで不良やれてるつもりなのかな……?」
「……力仕事をミリーにさせるのはカッコ悪いとか、自分がやるべきだとか、思ってくれたんじゃないかしら。特に掃除の時ってわたしたちだけだから」
「でもゴミ捨てに行ったら、途中で絶対人に見られちゃうよ。先生ともすれ違うかもしれない。そんな真面目に掃除してくれる人のこと、不良なんて思う? それにワタシたちやレルズ君たちとは学校の外でなら話せるって言うのも、どこで誰が見てるかわかんないし、たまたま近くに先生がいるかもしれないのに」
「……そうよねー。うん、フォローできないわ」
エレナも遂にお手上げでした。観念した顔で、シザーに代わって弁解することを諦めます。
「本当はわたしも、去年そういう風にシザーに聞いたことがあるのよ。何も意味ないんじゃないのって。でも、自分の問題だからほっといてくれって言われちゃったわ。だからわたしも詳しくは知らないけど、シザーにはシザーの理由があるのかもしれないわね」
「不良しなきゃいけない理由?」
「わたしだって訳わかんないわよ。でも……」
二人は揃って眉をひそめました。
「先生のことを試してるんだ、って言ってたっけ……」
これまでの彼との会話を思い返して、その場に佇みます。
反抗的な態度を取る自分という「不良」に、先生という大人は何を思いどんな行動をするのか。それを知るためにシザーは入学当初からこの日に至るまで、問題児の演技を続けています。
授業中にノートを取らず、課題も満足に提出せず、注意を受けても真面目な受け答えなど一切しない。そんなシザーに先生たちはすっかり手を焼いて、今やほとんどの人が彼と本気で向き合わなくなっていました。
彼の素顔を知るのは私たち一部の友人のみです。先生だけではなく、教室での様子しか見たことのない多くの学友たちからも、シザーは遠巻きに見られています。
シザーがそうまでする理由とは何でしょうか。シザーが求めるものとは何なのでしょうか。
それは二人にも、そして私にも、わからないこと。
――シザーはそれでいいの? 友達とか……色々。
――これは半分演技で、つまりもう半分は本気なんだよ。どっちかってと先公は嫌いだし、勉強もやりたくねえし、特に問題はないっつうか。
以前にミリーが尋ねたとき、シザーはからりと笑いながらそう答えていました。何を聞いても軽い調子だったものですから、その裏に隠した事情がある可能性など考えてきませんでした。
「シザーは、先生が……大人のことが気に入らないだけで、学校そのものが嫌いというわけじゃないと思うのよね……。学園祭だって、本当は……」
エレナの呟きはそのまま宙に消えていきます。
開けっぱなしの窓から吹き込む冷えた風が、エレナとミリーの体温を奪っていきました。