77.青いかがり火(1)
エレナたちが掃除をしていた音楽室の時間を少々、およそ三十分遡ります。
たった数分間の、ささやかな出来事。
どこのクラスも学園祭準備を行っていた時間のことです。
音楽室へ向かっていく、二人の人影がありました。二人は長机を協力して持ち、床の段差に注意しながら一人分の幅の扉を慎重に抜けていきます。
教室の隅に既にいくつも同じ物や大きな段ボールが固めて置いてあり、その近くにゆっくり下ろしました。
「よっし! これで終わり!」
片側を持っていた小柄な少年はレルズです。手を離し、笑って顔を上げました。
もう片方を持っていたのは、彼のクラスで学園祭実行委員を務めている女子生徒でジェシカといいます。彼につられるようにして、小さな八重歯を見せました。
「さすがに三往復は疲れたっしょ。ありがとね、お疲れ様」
「こんぐらい全然! 次の仕事は何だ?」
「まだやる気なの? マジで元気だねー」
威勢よく声を上げるレルズにクスクスと笑います。
ジェシカは指を一本ずつ折りながら、終わっている作業を確認していきました。
「もうやることは無いよ。机と椅子は今ので最後だしー、後の用意は前日にみんなでやるしー、暗幕は背の高い人たちで付けてくれたみたいだしー」
「うぐっ」
「あ、レ、レルズは机と椅子運ぶのめちゃくちゃ手伝ってくれたから! 超助かったよ!」
「何で伸びねーかなー……」
運んできた机にもたれかかって、レルズは恨めしげな目でカーテンを見上げます。彼が椅子の上に乗って腕を伸ばしても、そこに手が届くかどうかは微妙な高さです。
そんなレルズの横顔を、ジェシカは密かにそっと見つめています。何かを言いたげに唇を結び、仄かな熱を帯びた目を向けていました。
他のクラスメイトは、搬入作業を済んだことにして一足早く自分たちの教室へ戻ったようです。まるで仕組まれたかのように、レルズとジェシカは音楽室の中に二人きりでした。
ジェシカが窓際へ歩いていき、元から付いているカーテンの上に取り付けられた暗幕の端をギュッと掴んで、体の前へ一気に引き寄せて閉めます。日差しが遮られて影が落ちました。
「……別に身長なんて気にしないのにな」
とても小さなその呟きは、彼の耳には届きません。彼女もまた、何も無かったような振る舞いで後ろを向いたまま話しかけます。
「これだけでも暗くなるね?」
「な。ドアも全部閉めたら真っ暗なんじゃね」
「あ、あのさ。レルズは、後夜祭出る?」
そう尋ねる声が少しばかり上擦っていました。
「後夜祭か? そりゃ行くけど」
「そんじゃさ、もし、誰とも約束なかったら……、フォークダンスのとき、私のとこ来てくれないかな」
「へ」
レルズは素っ頓狂な声を上げて目を丸くします。
ジェシカは振り返らず、暗幕の裾を強く握り続けていました。レルズから彼女の表情は全く見えません。
「委員会の仕事で、テントの近くら辺にいると思うから……か、考えといて! 私、先に戻るね!」
早口でそれだけを告げると、顔を隠すように下を向いたまま走り去っていきました。
レルズはその場に固まってしまい、何の一言すらも返事ができませんでした。
暗幕を半分閉じたままの薄暗い教室内に一人取り残され、しばらく呆然としていたレルズの後ろ姿が、ずるずると沈んでいきます。
肘を折って机の上に突っ伏して、深い溜息を吐き出しました。
放課後になって掃除を終えたクラスメイトたちが、飾り付けに使う道具と各々の通学鞄を持って教室の扉の前に集合していきます。ここ最近は毎日のように、帰りまでずっと音楽室に集まって準備の仕上げをしていました。
「おーい、レルズー? 行かねーのー?」
革の手提げバッグを机に置いたまま椅子の後ろでぼんやりと棒立ちするレルズに、友人が呼びかけます。ハッとして弾かれたように顔を上げると、扉の前で皆が彼の方を見て待っていました。
その輪の中にいたジェシカと、バチリと目が合います。
二人とも目を逸らしました。
彼女はほんのりと頬を赤らめているけれど、レルズはそうではありません。ただ気まずそうに、苦しげに、眉を寄せます。
鞄を手に取って明るく作り笑顔を浮かべると、レルズは小走りで反対側の扉から教室を出ました。
「わり、今日は先帰る! また明日な!」
廊下の角を曲がった直後から彼の足取りは徐々に遅く、重くなり、また浮かない顔になっていきます。
靴箱に続く廊下を、レルズはとぼとぼと背中を丸めて歩いていました。他の生徒たちが脇を通り抜けていきます。
「歩くの遅。邪魔」
背後から、不意に辛辣な言葉が投げかけられました。
振り返るとスティンヴが立っています。いつから後方にいたのか、薄い青紫のサングラスの奥の目がレルズを冷たく見ていました。
「今日は残らないのか。去年、居残り常習だったくせに」
「そ、その言い方だと違う意味みてーだろ!」
レルズはすぐに取り繕い、普段通りに接します。
「今日は、ちょっとな。それより、スティンヴこそ準備の手伝いしねーの? お前のクラスって何だったっけ……ああ……」
「笑うな」
「笑ってねーよ」
「いいや笑ってた。ぼくは嫌だって初めから言ってたのに」
「当日楽しみにしてるぜ? そんときはおもっきし笑ってやるよ! あのスティンヴが客相手に――いっで!」
「絶対来んな」
スティンヴがブンッと鞄を一回しして、強かにレルズの体にぶつけました。レルズは各クラスの靴箱の間に逃げ込み、スティンヴも舌打ちをしながらその靴箱の逆側へと分かれます。
互いの姿は見えませんが、高い靴箱の向こうから冷めた声が飛んできました。
「わざとらしいはしゃぎ方やめろ。苛つくから」
「な、何だよ、わざとらしいって」
「わっかりやすい反応」
「だから何がだよ!?」
「声でか。そういうとこがわかりやすいって言ってるんだ。……あの女子、ミリーのことも」
「わっ、わああああ!?」
「うるさっ」
食い気味の絶叫が、スティンヴの声を掻き消します。
激しい音を立てて叩きつけるように戸を閉めながら、靴下だけのままで駆け出して反対に回り込みました。スティンヴは脱いだ上履きを戻している最中で、目と口を大きく開き狼狽した顔のレルズをじとっと睨みます。
「このぼくが気付かないわけないだろ。隠せてるとでも思ってたのか?」
「だっ、なっ、何の話だ!? 俺はっ、ちげーぞ!?」
「一年以上も気付いてないフリしてやってんだから感謝しろ」
「するわけねーし! ……って、え、いいい一年!? ちょ、マジ!? 誰にも何も言ってねーだろーな!?」
「こんなどうでもいいこと、いちいち喋るかよ」
レルズが叫ぶあらゆる訴えを放置し、全てを聞き流し、スティンヴは淡々と外靴に履き替えて校舎を出ました。レルズも慌てて靴を履き、ワーワーと騒ぎ立てながらその後をせわしなく追いかけていきます。
どちらともなく、二人の足は正門ではなく裏庭の方へと向かっていきました。角を曲がって校舎の裏へ回り、シザーも交えた三人でよくたむろしている馴染みの場所まで着いたところで、スティンヴが立ち止まります。
「……元気じゃん」
「へ?」
横を付いてきたレルズのことは見ずに、正面を見たまま呟いたそれは独り言のようでした。
二、三歩遅れて立ち止まったレルズが、斜め後ろに振り向きます。スティンヴは少しだけ首を上へ傾けて目を逸らし、サングラスの縁に手を添えました。そんな彼の仕草は、レルズの視線から目元と顔を隠すかのようでした。
「ぼくは別にレルズにもミリーのことにも興味はない」
「なっ、いきなり失礼だな!?」
「だから、お前が何を悩んでたってぼくには関係のないことだ。それを知ったところで他の奴に喋るつもりもない」
涼しい風が、柔らかに流れていきます。
レルズは少々間の抜けた顔で瞬きを繰り返しました。フン、と鼻を鳴らして足元の階段に腰を下ろしたスティンヴをまじまじと見下ろし、呆けた様子で口を開きます。
「……もしかして……スティンヴ、お前」
「調子乗んな」
「あだっ!? 何も言ってねーだろ!?」
最後まで口にする前にスティンヴの右足が伸びてきて、レルズのふくらはぎを蹴り上げました。