80.太陽の君(2)
ミリーちゃんを連れて、音楽室へ行くときに通ったのとは反対の階段から二階に上がる。
作業をしている他のクラスの前はササッと足早に抜けて、誰もいない教室の中に入ってすぐに扉を閉めた。反対の窓のカーテンも閉める。全部閉めたら薄暗すぎたから、一箇所だけ僅かに開けておいた。
極めつけに、カーテンの隙間や廊下側の扉の窓から見えなさそうな場所に立つ。俺が誘われた方だけど、やましいことは何もないけど、人に見られたら絶対良からぬ誤解をされる状況だから用心に越したことはない。
落ち着きのない俺を見て、ミリーちゃんはおかしそうに笑みを堪えていた。
杖を手に取ると、クルリと器用に一回しする。呪文を唱え、何かの魔法の力を込めたみたいだ。
「もし誰かに見られそうになってたら、ワタシだってわかんないようにすぐ変身しちゃうね」
「へ、変身?」
「ん。そっか、レルズ君には話してなかったっけ? ワタシ、自由に姿を変える魔法が使えるんだ。顔だけじゃなくて、声も体も全部」
「へー! 知らなかったっす、すげーっすね! でもそんなことができるんなら、何で今すぐ使わないんすか?」
「”ワタシ”のままで言いたいし、聞いてほしいからね」
ミリーちゃんは杖を構えた手を胸元のスカーフに押し当てた。一本線で差し込む外の光が、ちょうどその上を斜めに横切る。
真っ直ぐで真剣な目をして、ステージの上で歌い始める前のときみたいだ。
だけどそのときとは違う、悲痛さも強く感じた。これから出てくるのが甘い言葉なんかじゃないってことだけはわかってた。
「ワタシは、ずっとみんなの気持ちに向き合わずに、嘘を吐き続けてきました。みんなの思いをちゃんと受け止めないで、本当のことを黙って、逃げて。だから、ごめんなさい」
「何の……話っすか」
戸惑って問いながらも、ミリーちゃんが何を言いたいのか、本当は心の中では想像がついてる。
寂しげな微笑みと肌に感じる張り詰めた空気に、俺は覚えがあったから。
「ワタシの話だよ」
春先に交わした短い会話の記憶が蘇る。
――復帰は、しないんすか? 俺だけじゃないっす、みんな待ってるっすよ。
――今は無理だよ。勉強追いつけなくなっちゃうもん。
――……そっすよね。だから活動休止してるんですもんね。
あの日のこと、ミリーちゃんが覚えてるかどうかはわかんねーけど、俺は忘れようがない。
気が緩んで、踏み込み過ぎた質問をしちまったって、聞いた直後にすぐ後悔した。
あれ以来ずっと触れないようにしてきた。
俺は、あの活動休止の発表には裏があるんだと当時から思い続けてる。だけどミリーちゃんの表情を曇らせる原因が何なのかはわからなかったし、それを知ったところで、力になれることがあるのかもわからなかった。
俺が納得いかなくても、ミリーちゃんがいいのならそれがいい。ミリーちゃんがそう言うのなら、俺がこれ以上追求することじゃない。
そう考えて、事情は聞かずに黙って理解を示すのが正しいんだと思ってた。”歌えない”と言うなら、その言葉も受け入れるべきだって。
その行為こそが逃げだったんじゃないかと、今は思う。
多分、ジェシカへの返事と同じこと。そうするのがミリーちゃんに対する優しさだと考えてたから。そうする代わりに、俺自身の本当の気持ちは心の奥に沈めていた。自分に嘘を吐いてたんだ。
本当の想いを伝えるのは怖い。もしもそれを拒絶されてしまったら立ち直れないし、もしもそれが相手を苦しめてしまったら、俺も後悔に苦しむことになる。嘘で繕ってしまう方が気は楽だ。
でも、ビビッて怯えて本心をごまかし続けるのも格好悪い。そんな俺のことは、俺自身が好きになれない。
だからスティンヴにキツく言われたのがかなり効いたわけで。悔しいけど、図星を突かれた。俺はどこまでもヘタレだった。
”いつか”が来る日を待つのは、もうやめだ。
俺の想いはただ一つだけだって、わかったから。
「レルズ君は……今も、ワタシを待っていますか?」
「当然っす!」
目いっぱいに明るく、渾身の力を込めて、肯定を返す。
ミリーちゃんの不安を吹き飛ばせるように。
俺は、君が笑顔で歌を歌う姿をもう一度見たいんだ。
それが俺の本心だ。
蓋をして鍵をかけて封じ込めようとしてしまっていた、本当の気持ちだ。
そんな寂しそうな笑顔は、違う。君の本物の笑顔はもっとキラキラして眩しいってことを俺は知ってる。
あのとき俺が言い洩らしてしまった余計な一言は、もしかしたらミリーちゃんの心にも刺さったままだったんだろうか。そのせいで今みたいな顔をさせているんだとしたら、謝んなきゃいけないのは俺の方だ。
俺はミリーちゃんにまた歌ってほしい。
でもそんな顔はしてほしくない。させたくもない。
どうしたらいいんだろう、俺に何ができるんだろうと、足りない頭で考えた。いつかは必ず、と先延ばしにしていた結論を必死に手繰り寄せた。
そうしたら、一つしか出てこなかった。
俺にはそれ以外の方法がわからなかった。
「俺もミリーちゃんに謝りたいことがあるっす。てか、先に謝るっす」
「えっ? な、何?」
「”歌えない”って話してたこと、聞いちまって。だけどすんません、俺はそれでも、ミリーちゃんに歌ってほしい! 何でそんなこと言ったのか聞きたいって思うっす!」
ほとんど、気持ちの押し付けだ。
俺の身勝手でしかないかもしれない。
君をただ悩ませるだけでしかないのかもしれない。
でも、止まらない。一度蓋を開けてしまった感情は溢れるばかりだ。
ミリーちゃんは自嘲染みた笑みを浮かべ、両手で杖を抱く。
「詳しいことは……話すと長くなるし、きっと困らせちゃうだけだから、言えないの。けど……みんなに応える自信がなかったからかな」
視線を逸らして、少し俯いた。目元が翳る。
きゅうっと胸が詰まって、切なさに苦しくなった。
「ワタシは勝手で、わがままで……。本当はね、今もまだ時々自信を持てなくなるときがあるよ。自分の嫌なところや悪いなところが気になって仕方なくなっちゃって、後悔ばっかりして。ワタシなんてダメだー、って」
「そ、そんなことないっす! 俺はミリーちゃんのいいとこを沢山知ってます! 今すぐにでも言えるっすよ! だって俺は――……」
――俺は?
前のめりで言いかけたことにハッとして、喉の入り口で咄嗟に飲み込む。
丸くて大きなミリーちゃんの目が、不自然に止まった俺をきょとんと見つめた。そうして、コトンと小首を傾げた。
何気ない、たったそれだけの仕草なのに、激しく心が搔き乱されて冷や汗が噴き出る。
急に頭にサッと冷静さが戻ってきて、でも顔は燃えてるのかってくらい熱くて、開けたまま固まってしまった口がカラカラに渇いていく。
俺は君を励まそうとして。
自分に自信を持ってほしくて。
俺の想いの丈を伝えようとして。
今、この空間には確かに二人きりで。
これって、つまりは。
「お、俺は……、俺はっ」
言葉の先が続かない。何度も絞り出そうとしてはつっかえる、を繰り返す。
ミリーちゃんは不思議そうにしつつも、じっと続きを待っている。
い、今すぐにでもこの場から走り去りたい。
逃げたい。
ああ、でも、少しでもミリーちゃんの力になれるんだとしたら。笑顔になってくれるのなら。
……いや。それは、違う。
そんな殊勝な考えで言い訳して、取り繕っていい行為じゃない。
卑怯だろ。
だからこれは、そう、ケジメなんだ。
頬が熱い。呼吸が落ち着かない。
教室の中の空気が、ぴたりと止まってしまったみたいに思える。
逃げ出したくなる気持ちを抑えて、強く両足で踏ん張って、限界まで深く深く息を吸った。
一筋の陽の光が照らしている、ミリーちゃんの瞳。虹色に煌めいて、宝石みたいに綺麗で、吸い込まれそうだ。
そのまま離さないでいてほしい。
大きく吸い込んだ息を吐き出す勢いに任せて、叫ぶ。
「俺は……! ミリーちゃんのことが好きですから!」
ミリーちゃんの肩がぴくりと震え、瞬きをした。その反応の先が凄く怖い。だけどもう戻れない。
あの日、部屋にまで押しかけてきたエレナに指摘されたことを、俺は何ヶ月も悩み続けて迷っていた。でも、勝ちに行けってスティンヴに言われて、やっと答えに気がついた。
俺は勝ちたいわけじゃない。勝ち目のない勝負だと考え始めたところから、ずっと間違ってたんだ。
”勝敗”なんて、俺の望みとは関係ない。
勝ちとか負けとかじゃねーんだよ。
だけど『逃げるな』ってのは、その通りだ。
人気者のアイドルである彼女に対して俺が抱くこの感情の正体は何なのか。正直言うと、まだちゃんと自覚できてない。エレナの問いかけには今も胸を張って答えることはできないだろう。
でも、名前がなくたっていいんじゃないかと思う。
俺はミリーちゃんが好きだ。
ただ、それだけだ。
ミリーちゃんの歌を初めて耳にした日の、痺れるような衝撃は今もよく覚えてる。
商店街の特設ライブ会場の近くをたまたま通っていただけの俺は、よく通る澄んだ歌声に惹かれて足を止めた。
振り向いた先で歌っていたのが君だ。
スポットライトの下で一人輝くそのダンスに、愛らしいその笑顔に、そして活力に満ちたその歌声に、俺は一瞬で虜になってしまった。その日から、今に至るまでずっと心を奪われたままだ。
だから入学式の日に、同じ学校に来ていることがわかったときは信じられない気持ちだったんだ。
そうは言っても、別に俺とミリーちゃんの生活が交わることはなかったさ。俺はその他大勢の中の一人で、体育の授業や学校行事に参加してる姿を見つけては陰からこっそり目で追ったりしてたくらいだ。廊下で一瞬すれ違えただけでもその日はラッキーだと思えた。登校してくること自体も、そんなに多くなかったみたいだし。俺のことは全く認識されてなかったけど、でもそれで良いと思ってた。
そんな一年が過ぎて、エレナのイタズラ紛いなおせっかいをきっかけに、俺とミリーちゃんの関係が変わる。
遠くから一方的に追いかける相手だったはずのミリーちゃんが、手を伸ばせば触れられるところに突然やってきたんだ。
君の目が俺の姿を見ていて。
君の声が俺の名を呼んでいて。
それがどんなに革命的なことで、幸福だっただろう。
高い青空の遥か向こうで眩く光る、雲の上の存在みたいだったミリーちゃん。だけど、隣に並んで共に過ごした君はそんなことを感じさせない普通の子だった。普通の、でも、特別な女の子だったんだ。
この感情の正体が何なのか、俺にはわからないけど。
君の笑顔を見たくて。
君に名前を呼ばれたくて。
それは好きだってこと。
これぐらいわかる。
それだけはっきりしてればいい。それ以上の名前も”勝敗”も、俺には必要ない。
夏休みが終わるのと同時に、ミリーちゃんのライブの噂が広まったとき。きっと前の日のシザーさんのおかげなんだろうって俺は思った。それが嬉しかった。あれは確かに紛れもない本心で、またミリーちゃんの歌が聴けるんだと、俺はみんなと同じように喜べたんだ。
だけど実際はそうじゃなくて、それどころか噂の内容とは真逆で、ミリーちゃんはシザーさんに”歌えない”と打ち明けていたらしい。それがショックだった。あの質問をしてしまったときのことも思い出して、悲しくなった。
今思えば、それが俺じゃなくてシザーさんの役目だったという点はどうでもよかったんだ。嫉妬したっておかしくなかったけど、そうはならなかった。
そりゃ、俺だったらと望む気持ちも……ゼロじゃないけど。
でもそんなのは二の次でいい。
これは逃げじゃない。
俺の想いは、ただ一つ。
「こうして話すようになる前から俺は、ミリーちゃんを見てたっす。ミリーちゃんが凄い人だってことは、俺が保証するっす!」
君のことが好きだ。
歌う君の笑顔が好きだ。
そんな君の姿をまた見たいと、俺は心から願ってる。
「だから“歌えない”なんて言わないでほしいっす……!」
君が挫けそうなとき。泣きたいとき。ステージの上に立てないような、歌えなくなってしまうような、どんなときも。
俺は絶対に君の味方でいるから。
「もし自信を無くしそうなら、俺が応援してるって思い出してください! 聞かれれば直接でも言うっすよ! いつだって何回だって、俺は答えるっす!」
俺には他の方法がわからない。だからいくらでも繰り返すんだ。
何度でも、何度でも、伝え続けよう。
君の心に届くまで。
君の心を曇らせる雨雲を取り払えるまで。
明るくて、あったかくて、どんな人も惹きつける君の歌と笑顔は、何よりも眩しい光なんだって。
「ミリーちゃんは――俺の太陽だって!」
「……!」
それまで静かに耳を傾けてくれてたミリーちゃんが驚きに目を見開き、息を飲んだ。
瞬間、俺も全身がビシッと硬直する。
い、今、俺、何て言った?
完っ全に勢いですっげー恥ずかしいこと口走らなかったか!? 絶対引かれたよな!?
心臓が爆発しそうになりながら、慌てて言葉を足していく。
「たっ、たたた例えっす! そんだけすげー人ってことっす! お、俺以外にもみんなそう思ってるに違いないっすよ! 口に出さないだけで! 聞いてみたらいいっす!」
あんまり大声を出すと外に聞こえるかも、なんていう心配はすっぽりと抜けていて、俺は思い浮かぶままに言い訳を並べ立て続けた。
何が何だかわからないくらい動転している俺を前に、ミリーちゃんはゆっくりと花開くように微笑んでいく。
今日一番の可憐さにドキリとして、また動けなくなった。
「みんなが……レルズ君が、そんな風に応援してくれるから、ワタシは自分のことを信じられる。好きだって言ってもらえるようなワタシでいようって、そうありたいって、頑張れる。全部みんなのおかげなんだよ」
初めて聞いたような、とても温かな声色。
「嬉しい。レルズ君、本当にありがとう」
短い言葉だけど、とろけるように甘い声だった。
身動きが取れないまま脈拍だけがどんどん早まって、全身が火照って、止まらなくなっていって。
この瞬間は、君の声も笑顔も全て俺一人のために向けられたもの。
そう思うだけで幸せに満たされていく。
もう、これで俺は充分だよ。
逃げなくてよかった。
言ってよかった。
「”歌えない”なんて言う弱虫のワタシはおしまい。君と、学祭の前にちゃんと話せてよかったな」
俺が思っていたのと似たことをミリーちゃんも呟いて、心が重なったみたいで、また少し心が跳ねる。
だけどその言葉には、少し気になることもあった。
聞き返そうとしたけど、まごつく俺よりもミリーちゃんの方が早い。
「お願い、もう少しだけ待っててね。必ず、ワタシはまた歌うから」
「マジすか!? ぜ、絶対っすよ! 信じてますからね!」
「うん。約束」
そうはっきりと答えた後、好きな姿に変身ができるという魔法を込めた杖を鞄の中に片付けてしまった。
「ワタシも今日はもう、帰っちゃおうかな。ね、ちょっとだけ商店街寄っていってもいい?」
「はいっす! ……って、はい? い、今何て?」
「一緒に帰ろ?」
取り出した眼鏡を両手でかけながら、イタズラっぽく俺の顔を覗き込んでくる。
くらくらして、倒れてしまいそうだ。
「こっからっすか!? そっ、そそそそれはマズイっすよ!? 誰かに見られたら……」
「普通にしてると案外大丈夫なんだよ。ネフィリーともよく寄り道するし。初めて一緒に出かけた日だって平気だったでしょ? ワタシは一緒に帰りたいなぁ。ダメかな?」
勘弁してくれと、誰にともなく叫びたい。俺が言ってるのはそういうことだけじゃないんだ、ミリーちゃん!
これ以上は頭がパンクする。既に、目の前にいるミリーちゃんのこと以外何も入ってこない。
どうしようもないくらい、俺はこんなにも君でいっぱいで。
この想いを手放すなんてことは到底できそうにない。
でも、いいんだ。
「ね、レルズ君。行こ?」
ミリーちゃんがこっちを振り返りながら、上機嫌で扉を開けて教室から出ていこうとする。
かすかに開けているカーテンから洩れた強い夕陽の光が、その眩さと熱が、目をくらませて。
気付いたときには、すっかり彼女に引き寄せられていた。
ああもう、俺は駄目な奴だ。
これで本当に終わりにするから、今日だけは――今だけは、俺を許してくれないか。
自分に正直でいたいんだ。
明日からのことは、また後でちゃんと考えるから。
だから今だけは、この幸せに浸らせてくれ。
少し前を駆けていくミリーちゃんを追いかけて、俺も教室を飛び出す。
光が、廊下を金色に染め上げていた。
輝く校舎はまるで別世界だった。
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