99.gift&blessing(1)
* * *
水滴の滴る髪を首にかけたタオルで拭きながら、浴室を出た。
花の刺繡が入ったカーテンと窓を片側だけ少し開ける。湯気でほかほかしている腕や脚に涼やかな夜風が当たって心地良い。
ベッドに腰かけ、夜空を見上げる。
星の綺麗な夜だった。
明日の学園祭でワタシはステージに立つ。
ついに、本番。
サプライズライブにしようと言い出したのはエレナだ。
まずは友達で学園祭実行委員でもある彼女に相談しよう、と思い、地学の授業中にこっそり手紙を回した。学園祭のステージ発表の時間に一曲だけライブをさせてほしい、と。直前になってこんなことを要求し出すなんてわがままだと自覚してたから、謝罪の文も添えて。
だけど、エレナはすぐに返事をくれた。
――やりましょう! みんな喜ぶわ!
――わたしも精一杯協力するわね!
ステージ発表をするための応募期間は、夏休みが始まるよりも前に終わっている。それどころか、準備は仕上げに取り掛かっている段階だった。それなのに、何も心配しなくていいからそっちの用意に専念していて、ってエレナは本当に力を尽くしてくれた。
発表者たちのリハーサルの日に呼ばれ、彼らが帰った後の講堂で詳しい話を聞く。下校時間ギリギリの遅い時間帯、秘密の作戦会議みたいだった。
「もうプログラムはずらせないわ。でもステージ発表をスケジュールぴったりで終わらせて、閉会の挨拶をちょっと削れば時間はあるはずよ。進行役はわたしだから、任せて。何とかするわ」
「パンフレットも書き換えられないけど、それならそれでサプライズにしちゃったらどうかしら♪」
「ライブを加えた本当の日程案は、この中の手紙にまとめておいたわ。調整が必要そうだったらまた教えて。ひとまず、今日決めておきたいのは最低限の段取りと立ち位置の確認、演出の相談と……」
エレナはテキパキと話を進めていく。
自分で言い出しておきながら、正直無理な話じゃないかってワタシは思ってたんだ。ステージが使えないようなら、無許可で突発ライブをしちゃうことも考えていたほど。でも、ワタシの方が驚くくらい迅速に着々と計画が固まっていく。
実行委員会の人たちが話してくれた。こんなに協力してくれるのは、みんなもまたワタシのライブを望んでいるからなんだって。
――わたしも楽しみにしてるわ。
――先生はこれといって何もしていないよ。実行委員の生徒たちみんなが尽力してくれたおかげだ。先生の力じゃないさ。それに、教員たちも楽しみにしているからね。
――貴女は自慢の生徒よ。
ワタシを応援してくれる人はここにも、こんなにも。
半年ぶりくらいにマネージャーさんへ連絡を取ってワタシの意思を伝えたときも、とてもすんなりと受け入れられた。ワタシの身勝手で沢山迷惑をかけたのにまたわがままを言って、叱られる覚悟だったけど、こっちから話を切り出してくることをずっと待ってたって言ってくれた。
ワタシは本当に、恵まれているね。
先の見えなかった暗い道を、みんながパッと明るく照らす。
その明かりがなければ、ワタシはきっと進めなかった。
もう一度歌うことを決意した最大のきっかけは、シズクちゃんと出会ったこと。
昨年の冬、自らの誕生日に亡くなってしまった大切な友達の姿を想起させる彼女は、ワタシに歌ってほしいと願った。
どこかの小さなスタジオを一部屋借りて、そこにシズクちゃんを連れ出して歌えばそれでいい話だっただろう。でも、ワタシはそうしなかった。
正確には、できなかった。
怖かったから。
喉が塞がり歌えなくなる可能性を想像するだけで、苦しかった。
学園祭のような大きな場に立って、後に引けない状況を作らなくちゃ、自分を奮い立たせることができないって思ったんだ。
みんなのため……シズクちゃんのため……ワタシ自身のため、ワタシは歌を歌いたい。誰に何と思われたって、構わない。
歌いたい、ただそれだけの気持ちが、ワタシを突き動かしていた。
残るのは、ワタシ自身のパフォーマンスの問題。限りある練習時間で、どこまで完成度を上げられるか。
今から急に先生を呼ぶなんてできない。自分の都合で、これ以上周囲を振り回すわけにはいかない。
大丈夫。前にやっていた自主練と変わらない。
練習場所には、バレッドさんの店の周りの路地を使わせてもらうことになった。そうするのがいいと、パリアンさんが提案してくれたからだ。充分なスペースもあるし、場所を借りるのに何の手続きもお金も必要ないし、誰も来ないからって。
あの理髪店へパリアンさんと二人で行った日、歌う場を設ける計画をしていることを伝えたときのパリアンさんは満足げだった。
「具体的には何するの? どんな感じの予定なの? ……あっ、待って待って、やっぱり言わないでなのっ。アタシおしゃべりだから、うっかりお客さんに話しちゃうかもなの~」
「あはは……。まだ全然、何も決まってないです。学園祭の中で何かしたいな、って考えてるくらい。誰にも何も言ってないので、全部これからです」
「そっかぁ、学園祭。もうそんな時期なの」
目を細めて遠くの空を見上げるパリアンさん。前に「友達」のことを話していたときと同じ、穏やかな横顔だった。
だけどすぐに普段通りの様子に戻って、キャピキャピと声を上げる。
「楽しみにしてるの! ミリーなら絶対にうまくいくの!」
「………」
バレッドさんも一緒に話を聞いていたけど、彼はずっと何も言わなかった。本当にお店の近くで練習させてもらっていいのか、って確認したワタシを「しつけえ」と突っぱねただけだ。
バレッドさんを見た後だと、不機嫌なシザーもスティンヴも可愛いものだと思えてきちゃう。二人は口きいてくれるもん。
「最近、ちょっと怖いなって思う男の人と話すことが多いなぁ。どうしてだろ? なんだか慣れてきちゃいそう」
「うん? そなの? 学校の人?」
「ふふ、はい。でも、話してみると意外とそうでもなかったりして」
「そっかそっか~! ミリーにお友達が増えて嬉しいの! いっぱいおしゃべりするといいの! そんなところから恋が始まっちゃうかもなの? 実はもう始まってるかもなの~!?」
「え、そ、そういうんじゃないですよー!」
「フフフ、若いっていいの♪」
「何言ってるんですか、もう」
左頬にある青い星マークのペイントに手を添えて、パリアンさんは楽しそうに微笑みを浮かべた。
「ミリー、ファイトなの! アタシたちはいつでも協力するから、困ったことあったら呼んでね! なの!」
パリアンさんの真っ直ぐな言葉と笑顔はいつも、ワタシに勇気をくれる。どれだけ言っても足りないけれど、深く頭を下げてお礼を伝えた。表情を一切変えないバレッドさんの隣で、対照的にパリアンさんはいつまでもニコニコと笑っていた。
それからの放課後は週二、三回くらい、クラスの学園祭準備の手伝いを抜けて商店街の奥の袋小路にあるバレッドさんの店の前へ通って歌とダンスの復習を重ねた。
けど、その間本当に通行人の一人も通らなかったから、ワタシとしては助かったけど理髪店のことがちょっと心配。日中はそうでもないのかもしれないけど、もし一日中この有様なんだとしたら、売れてないの一言で済む話じゃないよ。バレッドさん自身もまるで生活感の無い人だから、余計なお世話だけど経営はちゃんと成り立ってるのかってすごく気になった。
学園祭で歌えることが決まってからは、練習の合間にシズクちゃんの入院している病室へお見舞いにも行った。
予定を伝えると、シズクちゃんは大興奮だった。自分の前で歌ってほしい、ただそれだけで軽い気持ちのお願いだったんだと思うけど、それがライブの予定にまで発展したんだもんね。
「行きたい! 絶対行くー!」
「よかった。でも家族の人以外には内緒にしててね? そうだ、せっかくだからクラスのお店にも遊びに来てほしいな。えっと、ワタシがいるのはね……」
優しい時間。
だけど、思い出したように時折ちくりと、小さな刺が胸に刺さる。
ああして真っ白なベッドの横で椅子に座って話をしていると、ワタシの胸に浮かぶのはやっぱり、クレアとの思い出ばかり。シズクちゃんは病気なんて感じさせないくらいに元気で、よく笑って、そんなところもクレアみたいだった。
でもシズクちゃんもクレアも、本当は心の中は不安でいっぱいだったのかもしれない。それは、ワタシには想像することしかできない。
「シズクの目、治るよね。手術、大丈夫だよね。ミリーちゃんがついてるもん」
お下げにした亜麻色の長い髪を指先でいじりながら、ぽつりと零した声。その姿にはいつもの覇気がなく、笑顔もどことなく弱々しくて、小さな体が一層小さく見えた。
「うん、シズクちゃんは大丈夫だよ」
ワタシは何も気付いていないフリをして、明るく答える。
もしシズクちゃんの元気さが本当じゃなかったとしても、そう振る舞うことが彼女自身を元気づけているのかもしれない。ワタシや周囲の人に、暗い顔をしてほしくないのかもしれない。
そうだとしたら、ワタシには気持ちがわかるんだ。
それは、アイドルを休んで学校へ毎日登校するようにし始めた頃のワタシと同じ。笑っていないとみんなを心配させてしまうから、悲しみと喪失感を押し隠して日々を過ごしていた頃のワタシと。
クレアがずっと笑顔を見せてくれていたのも、クレアの強さと優しさだったんだよね。
あの頃のクレアの中ではきっとそうするのが一番だったんだって、今のワタシには想像ができる。受け止めることができる。
ワタシが、クレアの心に早く気が付いていればよかった。気が付いたことから目を背けなければよかった。
消えない後悔は山ほどある。だけど、過ぎたことはもう戻らない。どれだけクレアを想ったって、本人が戻ってくることはない。
ワタシは、もう前に進まなくちゃ。
シズクちゃんが声を上げる。
「早くその日が来ないかなー!」
この声にきちんと向き合って、応えたい。
目の前にいるこの子は、ワタシを待っているのだから。
風に少し肌寒さを感じてきて、窓とカーテンを閉めた。
ベッドから立ち上がったときに思い立ち、部屋の隅に置いていたチョコレートの空き缶を手に取る。
中には沢山の手紙が入っていて、ワタシはそれを一つ一つ丁寧に広げていった。
全部クレアがワタシに送ってくれた言葉たち。これだけは、他のファンレターとは違う特別だ。
だけど、視界に入るだけでもつらくなって、あの日から今までずっと箱に詰めて閉じ込めたままだった。
今、その封を開いて、嚙み締めるようにゆっくり読み返していく。
クレアの声を、笑顔を、思い描きながら。
ワタシに勇気をくださいと、祈りながら。
チョコといえば……と、空き箱を見て思い出す。
パリアンさんにもらったチョコもあったっけ。バレッドさんのお店でお客さんにサービスで配っているという、コーヒー豆のような見た目の。でも誰も来ないから減らなくって、それで丸々一袋くれたんだろうなぁ。
あれから何週間も経ってるけど、バレッドさんへの不信感で何となく抵抗があってまだ開けていなかった。でも少し警戒心の解れた今なら、もう気にならないかも。
思い返してみれば、実際バレッドさんに嫌なことをされたことって一度も無い。ワタシが一人で怖がっていただけ。ちょっとキツイことは言われたけど、あれはきっと、ワタシのためを考えて言ってくれた言葉のはずだって今は思える。
このチョコは眠る前に食べるのがいいって、確かパリアンさんは言っていた。意味はよくわからないけど、ちょうど夜だから言われた通りにしてみようかな。
一粒かじると、柔らかな甘味が口いっぱいに広がった。食べ慣れた市販のチョコとは少し違う上品な味がした。
追加で二、三粒程度食べて、終わりにホットミルクを淹れる。明日の持ち物を確認したら、体があったまっている内に布団へ入った。
どうかうまくいきますように、と、星々のまたたく夜空に願いをかけて。
その晩、夢を見た。
懐かしい光景。
辺り一面真っ白な世界に、音楽室にあるような立派なグランドピアノと譜面台だけがある。人影は二つ、桃色のワタシと空色のクレアの二人きり。クレアはピアノの前の椅子に座って、ワタシはその横に立っている。
ワタシもクレアも笑顔で、歌を歌い、ピアノを鳴らす。
ワタシが何を歌ったのか、クレアが何を弾いていたのか、それは覚えていない。いったい何曲奏でたのかもわからない。
ただ、本当に楽しかった記憶と胸の温かさだけが残っている。
朝日が昇ってパチリと消えるまで、音楽会は絶えずに続いていた。
名残惜しさもあるけど、それを大きく上回る晴れやかな気持ちを抱いて目を覚ます。
幸せな夢だった。