創作小説公開場所:concerto

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[執筆状況](2023年12月)

次回更新*「暇を持て余す妖精たちの」第5話…2024年上旬予定。

110話までの内容で書籍作成予定。編集作業中。(2023年5月~)

67.pianist(2)

 病院の場所を聞いて、翌日の朝一番に家を飛び出した。風を切って空を飛び、空気の綺麗な港町の”丘の上”にあるという真っ白な建物を目指す。
 一ヶ月も前?
 入院なんて、聞いてない! あんなに手紙くれてたのに、そんなの一度も書いてなかったじゃん! どうして教えてくれなかったの!
 頭の中はそんな思いで埋め尽くされていた。
「クレアっ」
 病室に駆け込む。
 上体を起こしてベッドに座り、窓の方を見ていたクレアは、ワタシの慌ただしい足音に気付いて振り向くとパッと嬉しそうな顔をした。
「! ミリー!」
 いたっていつも通りの調子で、血色がいい。
 サイドテーブルに空の食器が並んでいる。膝の上には楽譜の本が開かれていて、部屋の隅に置かれた蓄音機から落ち着いた音楽が流れている。
 ワタシはドアの前で息を切らしたまま啞然として立ち尽くした。
 クレアが苦笑する。
「……その感じは、おばさんが大袈裟に話しましたねー?」
「家で、一人のときに、意識がなくなってて……病院に運ばれたって……」
「たまたまタイミングが悪かったのー。倒れたのもその一回だけだよ。診てもらったらただの貧血だっだし、すぐに退院できるって話だから手紙には書かなかったんだ。なんだか逆に心配かけちゃったみたいでごめんね。でも、もうこんなに元気ですのでっ」
 息を整えながら尋ねると、クレアはゆるく握った拳を体の前にシュシュッと突き出して元気そうな様子を見せた。
「この辺ってちょっとした高級住宅街なんだって。綺麗な町だよー。ここの窓からちょうどね、港と海が見えるんだ! 宿屋みたいないい眺めだよ、ミリーもこっち来て見てみなよー」
 その笑顔も手招きする仕草も自然で、呑気だ。ワタシは大きく安堵の息をつき、開いた窓の傍まで歩いた。クレアの言った通り見晴らしがよく、朝日に光る雄大な海がキラキラしている光景が見えた。
 しばらく話をして、帰り際、「何かあったらちゃんと教えるように!」と念を押す。
 クレアは笑って手を振る。
 もう一度「ごめんね」と囁くような小声で謝り、下ろした手をぎゅっと握っていた。

 

 ――まだ少し検査をしましょう、って話になっちゃいました。しばらくは、病院のお世話になりそうです。
 ――暇だから家からキーボードを持ってきてもらって、ミリーのレコードの曲を練習しています。そしたら、隣の病室のお爺さんから少し苦情が来ちゃいました。
 ――でもそれがきっかけで、そのお爺さんとは仲良くなりました。最近の若いアイドルのことは知らないけど、ミリーと同じで歌うのが好きなんだって。だから、ミリーの凄さをいっぱい教えています。今度、三人でお話できるかな。
 
 夏休みの後に届いた手紙にはそういったことが書かれていた。
 ワタシはフリーの時間のほとんどをクレアのための時間にして、なるべく沢山お見舞いに行った。一人で寝てるだけなんて、退屈に決まってるから。”丘の上”の病院は実家よりもスズライトに近いところだから、会いに行くのはこれまでと比べて楽になっていたし。……それを喜ぶのは駄目なことだけど。
 仕事場と、学校と、病院と、寮の往復。体が一つじゃ足りないくらい。多分あの頃が、一番大変だった時期かも。

 

 病室に入ったらまず、折り畳み式の小さな譜面台をベットの横に立てて、隣の丸椅子に座る。クレアはベッドから手を伸ばして、壁に立てかけた小さなテーブルとキーボードを布団の上にセットする。
 クレアは伴奏を。指先だけを躍らせるようにひそやかに鍵盤を叩いて、奏でる。
 それに寄り添うように、ワタシはメロディを。声量はかなり抑えめにして口ずさむ程度で、歌う。
 月日が経っても、場所が変わっても、ワタシたちは昔と同じように演奏会を開いていた。
 たまに看護師さんや隣の病室のお爺さん達が観客にやってきて、二人のものだったコンサートはちょっとだけ賑やかになった。
 毎日は大変だったけど、とっても楽しかったな。

 

 入院して以来、クレアがベッドから降りたところは見たことがなかった。

 

 あの頃にはもう動けなかったのかもしれない。
 検査入院だから心配しないで、と聞いていたけど。どこも悪いようには見えなかったけど。いつだって前向きで曇りない笑顔を絶やさなかったけど。
 でも確かめるのは怖くて、できなかった。たった一言口にするだけで、この幸福が一気に崩壊してしまいそうな不安があった。
 だって、検査にしては長くって。どこも悪くなさそうだけれど、その肌は病的なまでに白くなっていて。笑顔に曇りはないけれど、その瞳の輝きは昔より遥かに弱々しくって。
 いつまでも、退院する様子がなくって。
 その現実を直視するのが怖くて、怖くて。
 このままでいたい、と目を背けて、気付かないフリを続けた。
 夏は終わり、秋も過ぎ去ろうとしていた。

 

 毎年最後の一ヶ月は、ワタシたちにとって特別な月なんだ。
 それは月の始めにワタシの誕生日があり、月の終わりにはクレアの誕生日がやってくるから。その二日の中間にある年中行事の、感謝祭の夜のことも楽しみだけど、ワタシにとっては二人の誕生日の方が重大イベントだった。
 そんな去年の年末は、大きな岐路。
 あの日クレアがワタシに贈ってくれたのは、一生の思い出になるような素敵なものだったんだよ。何だと思う?

 

 ――最後に一つ、お願いです。お祝いをしたいので、誕生日はわたしのところへ来てください。
 ――今年もプレゼントを用意しています。
 ――直接会わないと渡せないものがあります。

 

 クレアのことはマネージャーさんも知っていたから、事情を説明して時間が取れるように予定を組んでもらっていた。
 仕事だと嘘をついて放課後の掃除をサボり、冷たい風に頬を叩かれながら、夕焼けを背にして”丘の上”の白い病院へ向かっていく。かじかんで赤くなった手に力を込めて、箒の柄を固く握りしめる。
 病室の中で、クレアはぼうっと窓の外を見ていた。膝の上にキーボードが置いてある。
 しんと静かに、雪の降り積もる銀世界のように、部屋は静まり返っていた。カーテンの隙間から柔らかく差し込む夕日に彼女の空色は染め上げられていて、そのまま夕闇へ溶けて消えてしまいそう。儚さと美しさに息が詰まり、ワタシはすぐに声をかけることができなかった。
 ステージに立つ前みたいに、胸元に手を添えて深く息を吸う。そうして心を落ち着けてから、声をかけた。クレアはゆっくりと振り向いた。
 遠慮がちな微笑を浮かべる。
「わがままなお願いしちゃったね。忙しいのにごめんね、ミリー。どうしても、おめでとうって直接言いたくて」
「平気、平気! 今日はもう時間ギリギリまでいるからね? えへへっ、今年のプレゼントは何かな~?」
「そ、そこまで期待されると恥ずかしいよ。……本当に、大したものじゃないんだ」
 丸椅子に腰を下ろしながらちょっぴりからかうと、もぞもぞと体を揺らした。
「今のわたしに何ができるかって、ずっと考えて……学校の友達やファンの人たちのプレゼントに比べたら、これは全然つまらないものかもしれない……でも……わたしにはこれしか……」
 クレアはいつになく弱気に背を丸め、眉を下げて目を閉じる。
 珍しい様子だった。クレアはいつだって自分の意思をしっかりと持った子だと思っていたから。
「勿体ぶられるとますます気になっちゃうよ。……ねぇ、ワタシはクレアの気持ちがこもったものなら何だって嬉しいと思うよ。お芝居の台詞みたいだけど、本気。だからほら、早く欲しいな?」
 椅子に手をついて、グッと身を乗り出す。
 クレアは伏せていた瞼をそっと開いた。
 透明に澄んだ瞳が水面のように揺れている。
 小刻みに震えていた唇が止まって、一本に引き結ばれると、神妙な顔つきになった。
 小さく開いた口から息を吸い、少し止めて。
 膝の上の鍵盤に指が下ろされる。

 
「……聞いてください」

 

 その一挙一動が今も頭に焼き付いているんだ。
 眩い夕焼けの光に包まれた姿が、まるで魔法の儀式をするように神秘的だった。
 もしかしたら、あれは本当に魔法だったのかも。

 

 始まりは、国中の誰もが知るポピュラーなバースデーソング。
 その短い一曲が終わった後も、左手は落ち着いたリズムを刻み続けた。
 滑らかに主旋律が移り変わり、紡がれていく。

 

 それは優しいメロディの、クレアが作った曲だった。
 ワタシがクレアに音楽を届け続けたように。今度はクレアが、自分で一から組み上げた音楽をくれたんだ。

 

 肘から下以外をほとんど動かさず、険しく張り詰めた必死な横顔で鍵盤を叩き続けるクレア。最後の一音が消えても、その表情はほぐれなかった。緊張とか、不安とか、そんな気持ちが混ざり合っていっぱいだったんだろう。
 クレアは鍵盤から手を離し、薄く開けた唇から息を長く吐き出した。
「……これが、楽譜。題名は無いんだけど……」
 おずおずと布団の下から取り出されたファイルを受け取る。中に入っていたのは、ペンで手書きされた数枚の楽譜。そこでワタシはようやく、今の曲がクレアの作品だということを理解した。
「クレアが……書いたの? これ全部?」
「うん。ご、ごめんねっ、やっぱり変だよね、こんなのが誕生日プレゼントだなんて、自己満足で思い上がりで……」
「なんで!? 超スゴイじゃん!」
 クレアの遠慮を吹き飛ばすように、ここが病院であることも忘れて声を張り上げる。クレアが驚いた顔でこっちを見た。
「何も変じゃないし、嬉しくないわけないよ! ワタシはクレアの大ファンだもん!」
 ワタシは真っ直ぐにその目を見つめ返して、ファイルをぎゅっと大事に抱きしめる。
「今日一番のプレゼントだよ、ありがと!」
 そんなありふれた言葉しか言えないのがもどかしい。
 初めて会ったその時からずっと、ずっとワタシは、クレアのピアノが奏でる世界に惹かれ続けていたんだ。この日のためだけに、ワタシのためだけに書かれたクレアの曲だなんて、宝石同然の宝物だった。
「もう一回弾いて!」
「えっ!?」
「アンコール! ね! お願い!」
 楽譜を抱いたまま懇願すると、クレアは戸惑いながらも恥ずかしそうに頬を綻ばせた。
 何回も、何回も弾いてもらいながら、重ねるように口ずさむ。煌めく光を瞳に映し、柔らかな温もりに心まで包まれる。
 その陽だまりの中は幸せで満たされていた。

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66.pianist(1)

* * *

 大切な友達がいたんだ。
 名前は、クレア。

 

 クレアは実家の隣に住んでた女の子。音楽が大好きで、ピアノがとても上手な子だった。
 仲良くなったのは七歳の頃だったかな。
 壁の向こう側から聞こえてくるピアノの音が気になって窓を覗いてみた、ある日のこと。そこに見えたのは、同い年くらいの女の子が黒い立派なグランドピアノを演奏している姿だった。
 小さな手足をめいっぱい伸ばし、ハイテンポなメロディを弾いている。とても大変そうなのに口元を楽しげに綻ばせていて、その横顔は力強い活力に満ちていた。
 眩しくって、目を奪われた。
 彼女が手を止め、呼吸を整える。するとこちらの視線に気が付いて、振り向いた彼女と目が合って。ワタシはアワアワと動転しながら、ニコッとごまかし笑いを浮かべた。彼女もニコリとはにかんだ。
 それが出会い。
 晴れやかな空を映したような青い目を綺麗だと思った。

 

 クレアは体が丈夫じゃなくて、外で激しく運動しちゃいけないってお医者さんに言われていたんだ。箒にも乗っちゃダメって。だから、遊ぶのはいつも家の中。ワタシはクレアの家に毎日のように遊びに行って、色んなことをいっぱい一緒にしたよ。お菓子を食べたり、花の図鑑を読んだり、トランプをしたり、お互いを占い合ったり。
 その中でも一番の楽しみだったのはクレアのピアノ。次第にワタシは聞くだけじゃなく、クレアの伴奏に合わせて歌を歌うようになった。ピアノも触らせてもらったけど、ワタシには歌の方が合っていたみたい。
 友達はいっぱいいたけど、クレアは一番の特別だった。体が弱いとは思えないほど、息が切れるくらいに全身を大きく使って音色を奏でるクレアがかっこよかったから。ピアノを、音楽を心の底から楽しんでいるのが伝わってきて、誰よりも素敵に思えたから。
 ワタシはクレアのピアノが大好きだった。
 その演奏に歌声を重ねている間は、彼女と同じ感覚を共有できる気がした。その間だけは、ワタシも彼女の輝きを分けてもらえるような気がしていた。
「ねぇ、もっと弾いて!」
「うん! じゃあミリーもまた一緒に歌ってくれる?」
 ワタシがクレアのピアノを好きなのと同じように、クレアもワタシの歌を好きだって何度も言ってくれたんだ。
「わたしね、ミリーの歌がすっごく好きだよ!」
 そんな風に。
 クレアに憧れたことがワタシの歌い始めたきっかけだったけど、それには気が付いていたのかな?
 ワタシがアイドルになろうとしたきっかけも、クレアなんだよ。自由にお出かけできないクレアが、ワタシの歌をいつでも聴きたいって言ってくれていたから。クレアがいなかったらきっと、オーディションに気が付くことも応募することもなかったはず。
 最終審査まで受かったって聞いたワタシがまず想像したのも、ステージで大勢の観客に囲まれる光景じゃなくって、あのピアノの部屋でクレアに報告することだった。
 そしてクレアは、本当に自分のことのように、喜んでくれたんだ。

 

 駆け出しアイドルとして歌うようになって、沢山の人がワタシの歌を楽しみにしてくれるようになったけれど、ワタシの気持ちはずっとクレア一人に向いていた。傍にいられる時間が減った分、一層強く気持ちがこもっていった。
 こんなの本当は、アイドルとしてはいけないこと。人にバレたら怒られちゃう。でも、その気持ちが収まることはなかった。
 数年経って、ワタシは事務所から近いところに学生寮があるスズライト魔法学校へ通うことが決まった。だけどクレアは体の都合で家の遠くへは行けないから、ワタシたちが共有できる時間はますます短くなってしまったんだ。
 そんな中、ワタシがクレアに送れる一番のメッセージは何よりも歌だって信じていた。クレアに届いてほしくて、いっぱい気持ちを込めて歌を歌った。
 クレアからは沢山の手紙が届けられた。
 お仕事が忙しくて、クレアが送ってくれる手紙にどんどん返事が追い付かなくなってしまった頃に、「これはファンレターです。わたしが送りたいだけだから、無理に返事しなくてもいいからね」と添えられていたことがある。
 だけど、読むことも書くこともやめなかった。クレアは思いやりがあって優しいからそう言ってくれたけど、返事がないのってやっぱり寂しいと思う。それに、ワタシが話したいことだっていっぱいあったもん。実は、授業中にこっそり隠れて返事書いたりしてたんだ。内緒にしてね?
 忙しいけど、満たされた日々。それが崩れてきたのは、一年前の夏休みの頃じゃないかって思う。
 レッスン、ライブ、収録、手紙、インタビューに答えて、営業も……、しなきゃいけないこともしたいことも山ほどあって。それで真面目に授業出てなかったから、一科目だけ補習になっちゃったことがあるの。
 学校が夏休みになっても、仕事はギッシリだ。スケジュールの合間にどうにか時間を作って、早くクレアに会いに行きたかったのに、補習のせいでそれが少しだけ遅れてしまった。担任だったパルティナ先生にもこってりと叱られて、凹んだなぁ。
 ワタシ達の家があるティンスターは、ここやお城よりもずっと北へ行ったところ。山も越えなくちゃいけないような場所だから、箒で朝に出発しても着くのは夕暮れ時になる。
 なのにその日は寝坊までしちゃって、そのせいで着いたときにはすっかり夜ご飯の時間だった。隣の家の明かりを見ながら実家に帰って、いくらお隣さんでもこの時間から遊びに行くのは迷惑だよなぁってぼんやり思いながらご飯を食べて。
 窓の向こうへと目をやる。隣は閉まったカーテンから明かりが漏れていて、なんだかワクワクする気持ちが溢れた。
「明日は朝から遊びに行っちゃおうかな。クレアに会えるの久しぶりだから楽しみ~!」
「え……ちょっと、ミリーあんた、クレアちゃんと文通してるんじゃなかった? 聞いてないの?」
「何を?」
 きょとんとして尋ねると、向かい側に座ったお母さんは言いにくそうに眉を寄せた。
「あの子は今いないよ。一ヶ月前に体調を崩して、港の方の病院に入院してるんだって」

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65.噂と真実

 静かな室内に、パサリと、ページを捲るひそやかな音だけが繰り返されていました。バレッドさんは読みかけの雑誌を再び手に取って、彼女たちがやってくる前の様子にすっかり戻っています。彼が出現させた大量の雑誌は全てパリアンさんによって拾い集められ、カウンターの裏へ一時的に片付けられていました。
 足を組んでソファに腰かけ、目線を落としたまま動かないバレッドさんの前にミリーは立ち、ぺこりと頭を下げます。
「話聞いてくれて、ありがとうございました。……正直、引っかかってることはまだいっぱいあるけど……気にしないことにします」
「………」
「はっきり言ってもらってちょっとだけスッキリしました」
 彼が何の反応も示さないため、自分自身へ言い聞かせているかのようです。その堂々とした背中にパリアンさんは嬉しそうな表情をして、くるんとミリーの顔を覗き込みました。
「もうバレッドのこと怖くないの?」
「うーん……それはまだ、ちょっと。パリアンさん、事前にクレアのこと喋ってたりしてないですよね? 実は全部打ち合わせしてあったり……」
「してるワケないの! アタシだって、バレッドがヒドイこと言っちゃったからハラハラしてたのー!」
 ミリーの問いかけに、パリアンさんは声を張り上げます。
 それにクスッと苦笑すると、もう一度彼に向き直りました。
「じゃあなんで、バレッドさんは知ってたんですか? 家族や事務所の人たち以外、ワタシは誰にもクレアのことを話してないし、どんな雑誌にだって載せないようにしてもらったのに。今見た雑誌の中にだって、本当のこと書いてるのは一つも無かったはずなのに……」
「………」
「って、聞いても、答えてくれないですよね」
 バレッドさんは顔を上げず、口も開きません。ミリーは首を横に振り、からりと笑いました。
「もういいです。だって、本当にバレッドさんの言う通りだったと思いますもん」
 彼と視線は合わないけれど、長い前髪の切れ間に僅かばかり覗く彼の瞳をしっかり見ます。
「これからは、ちゃんと前を見てみせるよ」
 先程まで風に震えていた窓ガラスに、ミリーの晴れやかな横顔が映されていました。
 
「最近、ちょっと怖いなって思う男の人と話すことが多いなぁ。どうしてだろ? なんだか慣れてきちゃいそう」
 そう言って茶目っ気ある笑顔で、ミリーが肩をすくめてみせた頃。
「へっくし!」
「うおっ!?」
 二人分のくしゃみが、青空の下に轟きます。
 ほぼ同じタイミングで鼻をすすったシザーとスティンヴにレルズは驚き、それからおかしそうに笑いました。
「今すっげーハモってたっす! 寒いっすか? 何か買ってきましょうかシザーさん!」
「いや、大丈夫だ。もう夕方は涼しくなってきたな」
「ぼくも別にいらない」
「俺はシザーさんに聞いてんだっつの! 前もこんなやり取りしたろ!」
 三人は校舎裏に集まっています。校舎の外壁と裏庭の間にある階段に、三角の形になって座っていました。段の下の方にレルズとシザーが並び、スティンヴはその二段上で足を組んでいます。いつものように、特に何をするでもなくたむろっているだけでした。
 穏やかな空気。視界の端に映る花壇で、可愛らしい花を咲かせたコスモスが風に揺れています。
 シザーはレルズに向き直りました。
「で、話の続きなんだが」
「ああ、はいっす。俺に聞きたいことって、何すか?」
「ミリーのことでちょっとさ」
「!」
「レルズはあいつの歌、生で聞いたことってあるか?」
「!?」
 シザーが一つ話を進めるたびに、レルズの瞼は大きく開かれていきます。最後には目玉が飛び出そうなくらいになりました。合わせて上半身を大きく仰け反らせ、引きつった笑顔であたふたと早口に聞き返します。
「なっ、ななななな何でそんなこと俺に聞くんすか!?」
「え、何でってそりゃ、スティンヴは興味ねーって聞かなくてもわかるだろ」
「あ、ああー……。なんだ、そういうことっすね……」
 振り返って、白けた顔で関心がなさそうにゆっくり頷くスティンヴを一瞥すると、レルズはぱちくりと瞬きをしました。ミリーのファンだということが気恥ずかしくて周囲に隠しているのに、それがよりにもよって尊敬するシザーにバレたのかと焦ったのでした。
 ほっと息をつき、平静を装って元の体勢に戻ります。
「ま、まあそっすね、ライブ行ったことはあるっすよ。町中ですげー評判でしたし、同じ学校にそんな有名人がいるって聞いたら気になるっすからね! これぐらい普通っすよね! シザーさんは一回も無いんすか?」
「ああ。町で流れてたレコードを何曲か聞いたことはあるが、実際歌ってるとこは見たことねー。どうだった?」
「ど、どうってのは……ライブの感想ってことっすかね……?」
 レルズは何と言えばいいものかと困惑しました。彼がなぜ急にそんなことを聞くのかも不思議でした。
 答えあぐねているレルズに、シザーが言葉を付け足します。
「変なこと聞いてるっつーのはわかってんだけど……実は歌ったフリだけだとか」
「へ!? いやいやいや! それはないっすよ!?」
「だよなあ」
 即座に否定されて、シザーはポリポリと頬を掻きました。その顔をレルズは怪訝に覗き込み、尋ね返しました。
「マジで何があったっすか、シザーさん。……何か妙な噂、聞いたりしました?」
「噂っつーか、ミリーがだいぶ前に言ってたんだ。”歌えない”って。それ思い出して、どういう意味なのか気になってな」
「えっ、……そんな、なんすかそれ……」
 レルズが唖然とします。
 彼の大きな目に戸惑いと落胆の色が広がったけれど、意外にも激しい動揺は見られませんでした。最も強く表れているように見えた感情は、悲しみでした。
「……勉強するための活動休止としか発表されてないはずっすけど……やっぱし、他に理由あるんすかね……」
「やっぱり? 心当たりあるのか?」
「えと……」
 独り言のような呟きを聞き返すと、俯いて膝の上で手を組み合わせます。
 ゆるやかに流れていく雲が日光を遮り、うなだれた肩に影が落ちて、肌寒さが増しました。
「去年の冬休みに年越しライブがあって、それが今んとこ最後のライブなんすよ。そん時は何も変わったとこはなくって……でもその後、休み明けからしばらく……そっすね、二、三週間くらい、学校に全然来てなかったらしいんです」
「理由はクラスの奴らも誰も知らなかったのか? 仲良かった女子とか」
「多分……。俺はクラス違ったんで、ただ単に仕事だって噂しか知らねっす。学校休んでたその間に『ピアニスト』っていう新曲をリリースしたのが最後で、同時に活動休止の発表もあって……それからはずっと普通に登校してきてるはずなんすけど……けど、あの発表の仕方は不自然だったって思うっす……!」
 レルズは組み合わせた手にグッと一層力を込めて、歯を噛み締めます。
「ミリーちゃ――ゲホッゲホッ、い、いや、あの子は、どんなことも自分の口で言ってくれてたっす! なのに最後に限って、新曲の発表も活動休止もその理由も全部あんな文章の説明だけでいなくなるなんて、おかしいっす! 絶対に何か……何か、隠してるっす……」
 熱を帯びた声はすぐに萎んでいき、指先からも弱々しく力が抜けていきました。
「でも、もしそれが、シザーさんが今言った話のことなら……俺……」
 レルズにも思い当たる節があるようでした。恐らく、活動復帰の予定はないのかと彼女自身に尋ねたあの日のことを思い出していたのでしょう。
 シザーは背を反らして無言で空を仰ぎました。
「俺、何も知らねーんだな」
「ってか、こいつが詳しすぎだろ」
「そそそそんなことねーし!? おめーは知らないんだろうけどな、そんときの雑誌はどれも『突然の休止宣言!』っつってマジすごかったんだぞ!? 別にこんぐらい知ってる奴たくさんいるっての!」
 ボソリと呟いたスティンヴにレルズは腰を浮かせて反論しますが、まるで相手にされていません。
 一人で声を張り上げるレルズの様子を横目に見ると、一呼吸遅れてシザーは体を揺らしながら笑みを零しました。それでこの話題は終わりました。

 

 ステージに立つミリーの姿を、シザーは知りません。
 彼が知っているのは、友人に囲まれて笑顔を見せる制服姿。そしてもう一つ、日陰になった路地裏で膝を抱えてしゃくり上げる姿。
 その花のような笑顔と小さな体は、自分よりも弱いものだと思えました。
 だからシザーは、半ば強引にミリーの腕を掴んで、彼女の歌が聞きたいと願うシズクから引き離そうとしました。それが彼女のために自分が取るべき行動だと真っ直ぐに信じていました。
 しかしミリーは、その手を振りほどいたのでした。
『ありがと。……でも……いいんだ』
 そう微笑んで、優しく。
 あの時には、ミリーの涙は既に乾いていたようでした。

 

 ガヤガヤと賑やかな、浮足立つ教室。
 視界の隅にシザーの背が映ります。
 やっとこの瞬間を捉えた、と、ミリーは瞳を光らせました。
 学園祭準備とはいえ、まだ授業時間中です。それにも関わらず通学鞄を持って教室後方の扉から廊下へ出ていくシザーを見つけ、ミリーはその後を追いかけていました。
 腕を伸ばし、彼のシャツの背中をちょんと掴みます。
 先日起きたルベリーの件での話し合い中には黙って席についていたシザーですけれど、この時間中はギアー先生が教室に戻ってこないとわかると、彼は賑わいに紛れてふらりと姿を消すようになっていました。
 ある日ミリーはそのことに気付き、教卓前に立つエレナにこっそり尋ねていました。
「シザーって、学祭でもあの感じ……?」
「多分、そうね。去年はどこかでサボッてたみたいだわ。今年は少しくらい顔出してちょうだい、って頼んではいるけど……どうかしら」
 そう答えながら、エレナも寂しそうに首を振ります。彼女も校内でのシザーの振る舞いに納得しているわけではないのでしょう。
 ミリーは、夏休み前に皆でキラの部屋へ集まって遊びの計画を立てた日のことを思い浮かべます。大きく口を開けて笑う、シザーの明るい素顔が思い浮かびます。
 しかし、軽く背を引っ張られて振り向いた彼は、そんな感情を押し殺したような無色透明の瞳をしていました。
「何だ」
 付いてきたのがミリーだとわかって少しだけ目を見張りましたが、硬く強張らせた声で短く言います。
「帰っちゃうの……?」
 手を離し、ミリーも小声で遠慮がちに聞きました。
 シザーは口をへの字に曲げて視線を外し、ぽつぽつと低い声で続けます。
「いいんだ、俺は。早く戻れよ」
「で、でも……うぅ、むぅ~……」
 校内では話しかけない。元々シザーとはそうした約束をしていました。決して忘れてはいないけれど、飲み込んだ言葉と伝え足りない思いは喉につっかえます。
 口を閉じて目だけで訴えかけるミリーの様子を見かねたのか、シザーはしかめ面で彼女の傍へ一歩近付きました。
 ぐっと顔を寄せ、周囲に目を配り誰もいないことを確認しながら耳打ちします。
「……!」
「あん時の子供の話か? ……シズク……っつったっけ」
「え、えっ?」
 ミリーがドギマギとして返事に詰まったのを、図星だったからだとシザーは判断しました。彼女が目を大きく見開いて頬を淡く染めているのは見えていませんでした。
「森でいいか」
「も、森? あ……前のときと同じ場所、だよね。……うん、わかった……後で行くよ」
 シザーの静かな声から彼の言葉の意図を理解したミリーは、まだ少し赤い顔で答えます。
 何事もなかったかのように体を離してスタスタと振り返らず去っていく後ろ姿を、ミリーは呆然と見送りました。
 彼が曲がり角の向こうへと消えた後になってようやく身動きが取れるようになり、顔を両手で覆って溜息を吐き出します。言葉にならない様々な感情がこもっていました。

 

 放課後になって、箒に跨り真っ直ぐに妖精の森方面へ向かいます。
 最初に待ち合わせたときと同じ場所に、シザーが腕組みをして立っていました。彼はミリーが地に足を降ろしたのを見ると、無言で森の奥を指差します。木々の間へと消えていくその背中に、少し離れて付いていきました。
 外の道から見えなくなるくらいに進んだところで、シザーが振り向きます。
「どうだここ、夏休みに見つけたんだ」
 すっかり人が変わったような爽やかな顔と声をしていました。
 彼の向こう側には開けた場所があり、透き通った鏡のような泉がありました。木漏れ日を浴びて水面が輝いています。ミリーはシザーの変わり身に少々面食らったものの、その美しい光景にすぐ歓声を上げました。
「キレイ! こんな場所、知らなかったよ。ワタシ実はこの辺の森に入ったことってあんまりないんだ」
「たまに途中から道が変になってて、来れなかったりするんだけどな」
「変に?」
「聞いたことないか? この森ん中歩いてると、気付いたらUターンさせられてて来た道戻ってるっつー話。ま、今日はちゃんと来れたみてーだな。うっし、ここなら誰にも聞かれねーだろ」
「確かに誰もいなさそうだけど……ふふ、妖精はどこかで聞いてるんじゃないかな?」
「どうだか」
 ミリーの冗談めいた口ぶりを、シザーは鼻で笑いました。
 泉のほとりに倒れている太い木をベンチのようにして腰かけて、シザーはミリーを視線で呼びます。隣にちょこんと膝を揃えて座ると、波一つない静かな水面を眺めました。
 先に口を開いたのはシザーでした。上半身を捻ってミリーの方へ向け、率直に切り出します。
「後悔してねーか? あの子供の頼み聞いたこと」
 ミリーは泉を見下ろしたまま微笑して話しました。
「してないよ、してない。ありがと、心配してくれて」
「当たり前だろ。……もう“歌える”のか?」
「……うん。頑張る。きっと、大丈夫になったはずだから」
「そうか」
 二人は途切れ途切れに言葉を交わします。
 風が吹いて、泉が揺らされました。さわさわと木々が騒めきます。
 シザーは口をつぐみ、再び泉に目をやりました。足をぶらつかせて落ち着かない様子で、まだ何かを聞きたそうにしています。
「………」
「お話……したいな」
「?」
 ぽつりとミリーが呟き、今度はミリーがシザーの方へと顔を向ける番でした。
 風に吹かれて木の葉が舞い、一枚ひらりと泉の上に浮かびます。
「聞いてくれる? あの時言えなかった、歌えなかった理由」
 首を傾げて穏やかに問いかけると、シザーはスッと顔を引き締めて、真っ直ぐな力強い眼差しで頷きました。
「俺でいいんなら聞くぜ」
「うん……。あのね、ワタシは」
 ミリーが優しく微笑みます。

 

「ワタシは、本当はずっと……歌いたかったんだ」

 

 語られたのは、私の知らないジュニアアイドル・ミリーの真実でした。

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64.導くは鎮魂歌

 パリアンさんはよく子供っぽい振る舞いをするのですけれど、やはり、私たちよりもずっと大人でした。時々妙に含みのあることを言って、澄んだ光をその緑の瞳に宿します。そんな彼女の目に、ミリーは惹かれていたのでしょう。
 翌日ミリーはもう一度店頭へ足を運び、フロアでパリアンさんの姿を捜しました。
 先に彼女の方がミリーに気が付いて、歩み寄ってくると小首を傾げながら一言尋ねます。
「幸せは見つかったの?」
 ミリーは、レンズの厚い伊達眼鏡で隠した目をわずかに見張りました。肩を落として首を横に振ると、パリアンさんはミリーを安心させるように朗らかに笑って言います。
「ゆっくりでいいの。いきなりはムリなのー。それより、来週の定休日一緒にお出かけしよ! なの! 都合悪くない?」
「うん、いいですよ。行きたいな。どこ行くか決まってるんですか?」
「カレのところ!」
「えっ」
 それまでは乗り気に見えたミリーが、グッと身を引いてたじろぎます。
「そ、それはお出かけって言わないんじゃないかな!?」
「嫌なの?」
「う、うぅー……だって、全然笑わないし喋らなくって怖いんですもん……」
「それはねぇ、クールでカッコいいっていうの♪」
 普段以上のハイトーンボイスでうっとりと手を合わせるパリアンさんに、さすがのミリーも呆れ顔です。頬を引きつらせ、ステージ上ではとても見せられない苦笑いをしています。
 聞き流すつもりになっていたミリーでしたが、実際にはパリアンさんの発言は決して単なる惚気ではなく、ミリーのことを考えた結果の真剣な提案でもありました。
「喋んないのはそうかもだけど、バレッドはすごーく優しくって頭いいから、アタシのよりもいい答えが聞けると思うの。顔だって怖くないの、カッコいいの!」
 パリアンさんは力説します。
 その真っ直ぐな善意を拒否することは、ミリーにはできませんでした。流されるまま予定が決まってしまったのでした。

 

 彼に会うことを考えると気が重く、学校でも少々憂鬱な気分になってしまいます。パリアンさんには言わなかったけれど、ミリーがその男性を恐れている理由は他にもありました。
 放課後、机に突っ伏していたところを、一緒に下校しようとしてやってきたネフィリーが心配そうに覗き込んできます。
「ど、どうしたの? 大丈夫……? 今日もまた用事だった?」
「ん……あ、わ、ネフィリー! だっ、大丈夫だよ。帰ろっか」
 慌ててガタッと立ち上がり、笑みを取り繕って鞄を手に取りました。
「最近なかなか一緒に帰れなくってごめんね? ちょっと……色々あって」
「うん、急用だったんでしょ? 気にしないで。それより、本当に大丈夫? 疲れてない?」
「ワタシは元気だよ! 学祭の準備が色々忙しいから、そのせいじゃないかな?」
「ならいいけど……」
 ネフィリーは不安げな表情を変えません。
 ミリーはパタパタと手を振って明るく笑うと、別の話題を振りました。
「あのさ、ネフィリーは聞いたことない? 人の記憶を盗むっていう男の人の噂」
「……!」
 それを聞いたネフィリーは息を飲み、つり目がちな顔つきを途端に険しくさせたけれど、ミリーは特に気が付いていない様子です。
「……知らない。教えて」
「そのまんまなんだけどね」
 こわばった表情で尋ねるネフィリーに、廊下を歩きながら説明します。
「商店街でお店やってる人でね、占い師とかでもないのに、やけに他人のことに詳しいの。何でも知ってるんじゃないかってくらい、変なことまで知っててさ。あといっつも無表情で怖い! で、人の記憶を盗み見てるんじゃないかって気味悪がられてるんだよ」
「盗むって、そういう……。取られるとか、忘れるとかとは違うんだね?」
「ん、そこまでは聞いたことないなぁ。でも、忘れちゃうんならこんな噂にはならないんじゃない?」
「……そっか」
 食い入るようにじっとミリーを見つめ耳を傾けていたネフィリーでしたが、急に関心を失ったようにスッと視線を外しました。
「いくらなんでもデタラメだって思ってるよ? でもほら、ルベリーのことがあったでしょ? 人の心の声を聞ける人がいるなら、もしかするとこの話も本当かもしれなくない?」
「本当のことだったら、その人もルベリーと同じってことなのかな。半霊族、だっけ」
「かもね~」
 話を始めた最初こそ強く興味を引かれていた様子でしたが、ネフィリーはもうすっかり落ち着きを取り戻し、真っ直ぐ正面を向いています。彼女が期待していた内容とは少々異なっていたのかもしれません。
 二人はいつものように、互いのクラスの出来事を話して笑いながら肩を並べて下校していきました。

 

 それは、この町の商店街では昔からそれなりに知れ渡っている話です。
 大通りから遠く外れた路地の奥、日当たりの悪い袋小路の突き当たりに位置する平屋。打ち捨てられた廃墟のようですらある、看板の無い理髪店。窓の角には蜘蛛の巣が張られていて、ガラスには小さなヒビが入り、壁の塗装はところどころ剥がれかけています。
 店主は彫像のようにぴくりとも動かない表情を長い黒髪で覆った、全身黒づくめの不気味な男性です。口数はとても少ないのに、いざ口を開いたと思えば、人の恐れや不安を全て見透かすかのような言葉をぼそりと投げかけてくるといいます。
 そういった店の外観や店主自身の印象から、その理髪店には滅多に人が寄り付くことがありません。
 この日もまた、来客はおろか通行人の一人すら近寄らない店の中、本来はお客さん用として置いているはずの紅色のソファで、彼は気だるげに足を組み黙々と雑誌を読みふけっていました。何か月も整えていなさそうな伸びっぱなしの前髪が、鼻先にまでかかっています。
 ガラス張りの扉からその姿が見えていて、ミリーは入口の前でごくんと息を飲みました。
「バレッドー! アタシなの!」
 そんな空気などお構いなしと、パリアンさんが直進して戸を開け放ちます。
 店主のバレッドさんは、微動だにしません。
 雑誌に集中していて聞こえていないのだろうか、と訝しみながら、ミリーもおずおずとパリアンさんの後ろに付いて中へ進んでいきます。店内は嫌に冷えきっていました。
 パリアンさんはミリーを置いてどんどん奥まで入り込んでいき、体をぶつけるほどの勢いで彼の隣に座ります。それでも尚、彼は一切の反応を示しません。
「今日はねっ、お友達も連れてきちゃったの」
「………」
「この子! ミリーなの! バレッドも知ってるよね? 雑誌にもいっぱい載ってたアイドルさんだもん!」
「………」
「でも今はちょっと事情があってね、相談に乗ってほしいのっ。ね? お願いなの~」
「………」
 甘えた声を出しながらパリアンさんがバレッドさんの腕に抱き着くと、彼が初めて身動きを取りました。
 誌面に目を落としたまま、無言で、ぐいと押し返しました。
「えへへー、バレッドったら照れちゃって♪」
「うるせえ。邪魔だ」
 今度は低く唸るような声で撥ねつけます。
 離れたところから様子を見聞きしていただけで、自分に言われたわけでもないのに、ミリーは全身がすくむのを感じました。
 当のパリアンさんは全くもって平然としていて、それどころか、満面の笑みを崩すことなく再度くっつきます。けれど「暑苦しい」と二度目はしっかり引き剥がされてしまい、そこまでされてようやく少しむくれました。
 ミリーは、パリアンさんが熱烈な愛を注いでいる彼の存在については、以前より彼女自身から話に聞いていました。しかし、それとは別に例の噂話も耳にしていて、どちらも同じ“バレッド“という男性のことだと知っていたのです。
 目の当たりにしてみても、二人の関係は不可解でした。
 唖然として立ちすくんでいると、唐突にバレッドさんが頭を上げてミリーの方に振り向きました。ほとんど目は隠れていて見えないのですけれど、確かに視線を感じます。ミリーはつい反射的に二、三歩後ずさりました。
 ミリーがそのまま動けずにいるとバレッドさんは溜息を吐き、雑誌を乱雑に置いてユラリと立ち上がります。
「………」
「あの、ワ、ワタシ……!」
 ゆっくりだるそうに歩いてきて、委縮するミリーの正面で立ち止まりました。
 バレッドさんは背が高く、一方のミリーはただでさえ小柄ですので、彼の体の幅にすっぽりと収まってしまいます。よれよれにくたびれた真っ黒なシャツと長ズボンに身を包んでいるため体格がわかりにくいのですが、半袖の下から伸びる両腕は筋肉がついて引き締まっていました。がっしりとした太さがあり、ミリーの首の太さと同じくらいありそうです。
 ミリーは威圧感に怯えながら、恐る恐る見上げます。すると、その距離でようやくバレッドさんの表情を確認することができました。
 ――ちょっとカッコいいかも、と、少しだけ胸のドキドキが強まります。
 無造作に伸びた髪は枝毛ばかりで、服も皺だらけなのですけれど、近くで見ると前髪の隙間から覗く目鼻立ちだけはモデルのように整っているのが伺えました。やはり無表情で恐ろしくはありましたが、それがかえって、筋の通った高い鼻と切れ長の目を引き立てているようにも感じられます。クールな美形と捉えられなくもありません。
 バレッドさんは感情の読めない真っ黒な目にミリーを映して、しばらくそのまま見定めるように静止した後、彼女の頭の向こう側にじっと目をやりました。その目線の先にミリーではない別の誰かを見ているような違和感がありました。
 風がカタカタと窓ガラスを叩いています。隙間風が入り込んできて髪を掠めました。
「相談なんか無駄だ」
「え……」
「何度も言わせんじゃねえ。一度で聞け」
「!」
「めんどくせえんだよ」
 乱暴で強い語気にミリーはびくりと体を震わせます。バレッドさんは自身の頭を荒々しくガシガシと掻きながら、ミリーに背を向けました。
 振り返った彼のすぐ目の前には、パリアンさんのしかめ面が。
 いつの間にか彼女も傍にやってきていました。
「そんなこと言わないの! もうちょっと優しく聞いたげてなの!」
「だりい」
「もー! 言ってるそばからなの! そういうのをやめてって言ってるのー! あ、そうだミリー、これ美味しいから食べて食べて! 持って帰ってなの」
 パリアンさんは冷ややかな態度をとるバレッドさんにぷりぷりと怒っていましたが、唐突にくるりと表情を一転させてミリーに声をかけます。
「え? わ、あ、はい。えっと……チョコかな?」
 手渡された紙袋は、一部が半透明のフィルムで中が見えるようになっていました。そのパッケージも中身も、一見するとコーヒー豆のようです。
「こんなにいっぱい、いいんですか?」
「サービス用だから平気! あげるの! 夜寝る前のデザートにするのがオススメなの、試してみてなの」
「………」
 そう伝えながら自分でも持っていた一粒を口にして、ポリポリと無邪気に咀嚼しました。勝手に会計カウンターの裏から取ってきたようでしたが、バレッドさんが特に咎めたりする様子はありません。ミリーは紙袋を鞄の中にしまいます。もはや自分が何をしに来たのか、何をしているのか、疑問に思い始めました。
 先程の彼の発言の意図は気になっているけれど、あのようにきつく言われた直後に聞き直すのは酷でしょう。ミリーはその場でまごついていました。
 少しの間だけ誰も喋らず、沈黙が流れます。
 ミリーの横で、窓ガラスがバレッドさんを呼ぶようにガタガタ鳴りました。顔だけ振り向かせた彼は、揺れた髪の切れ間からギロリとミリーを睨んでいます。
「もうとっくに答え決めてんだろ」
「え! そうなの?」
「……そ、それは……だけど……」
「………」
 バレッドさんの鋭い目つきがミリーを突き刺しました。
 自分の何を知っているのか。どうして知った風なことを言えるのか。そう言い返すこともできません。
 一言喋ったきりまた口を閉ざしてしまったバレッドさんと体を縮こまらせたミリーをチラッと見ると、パリアンさんは彼に代わって口を開きました。
「何も迷うことないって! 今ミリーが考えてることに間違いはないから、その通りに行動すればいいの! バレッドはそう言ってるの! さっきのは、もう相談する必要はないって意味なの!」
「そ……そうだったんですか?」
「………」
 バレッドさんがまた溜息を一つつきます。
 ミリーにはとてもそう思えないのですけれど、パリアンさんは自信満々に頷いていました。
「……本当にいいんですか……?」
「知るか」
「大丈夫なの! バレッドもそう言ってるの!」
「い、今のは絶対言ってなかったですよ!?」
 思わず口をついたそんな指摘も意に介さずに、彼女は続けます。
 凛とした真っ直ぐな眼差しを不意にミリーへ向け、
「歌いたいんだよね?」
 そう短く問いかけました。
「誰も思ってないの。ミリーが歌っちゃいけないなんて。アタシもバレッドも、ファンのみんなも、クレアちゃんも! みんなミリーを待ってるの!」
「で、でも!」
 冷気がミリーの頬をそっと撫でていきます。
「だからワタシは、失望されるのが、怖い……。その期待にワタシは応えられないかもしれない……それに……人の気持ちはその人にしかわからないってパリアンさんも言ってたじゃないですか。それじゃあ……」
 パリアンさんの励ましは優しい響きをしているけれど、未だにミリーはそれを素直に聞き入れることができません。弱々しく激しい声になって、反発します。
「うぜえな、グズが」
 黙って聞いていたバレッドさんが、吐き捨てるように。

 

「死人は何も言わねえだろうが」

 

 彼の言葉は無情で、ミリーの心臓をギュッと鷲掴みにするようでした。
 ガラスが一際大きくガタンと音を立てます。
 喉を詰まらせて眉を寄せ、鞄ごと体をきつく抱き締めたミリーを背に庇いながら、パリアンさんが二人の間に立ち塞がりました。キッと口を結んで責めるような目をバレッドさんに向け、詰め寄ります。
 しかしバレッドさんはその肩を押しのけて、尚もミリーの前に立ち続けました。そしておもむろに、ズボンのポケットから杖を取り出しました。
「めんどくせ……」
 溜息交じりにぼやいた後、ぼそぼそと呪文らしきものを唱え出します。無骨な木の杖が手のひらの上で長く伸びて、彼の背丈よりも大きくなりました。
 カツン、とダークブラウンの床に軽く振り下ろすと、微弱な風がバレッドさんの前髪をふわりと広げます。
 黒真珠のような瞳にぼんやりと白い光が灯されました。
 その光はまるで、浮かび上がる火の玉でした。
 彼の魔法により、三人の頭上に大量の雑誌が一斉に出現します。その数はおよそ五十以上もあり、全部が淡い光の輪に包まれてページを開いた状態で宙に浮いていました。
 二人は、その光景に驚嘆して見上げます。
 ミリーの目にまず飛び込んできたのは、笑顔の自分の似顔絵でした。
 それはミリー自身にも覚えがあります。記事の内容は、オーディションに受かったことを流行りの週刊誌で大きく取り上げてもらったときのものです。まさにその一ページが目の前に広げられていて、彼女の感情は大きく揺り動かされました。
 ぐるりと見渡してみると、開かれているページに書かれていたのは全てミリーに関連した記事のようでした。
 大きく掲載されて目立っているのはそのデビュー時のニュースと、人気絶頂期に数多く組まれた彼女の特集、ライブ前後のインタビューなど。活動休止を発表した頃の記事も特に大々的に、センセーショナルな見出しとセットで載せられています。
 また、芸能誌に限らず、ファッション誌やグルメ情報誌でモデルを任されたときのものや、イメージキャラクターとして広告に添えられたイラストまで見つかりました。一面ほとんど文字と表だけの、レコードの発売日一覧や売上のランキングまで中にはありました。
 描かれているミリーの表情は生き生きとしていて、店内に桃色の花々が咲き誇っているようです。
「いい加減思い出せ」
「……思い出す……?」
 バレッドさんは苛立ちの滲んだ低い声で咎めるように言います。
「ワタシ、別に何も、忘れてなんか……」
 ミリーが顔を下げると光の輪が割れて、彼女の視線を追うように、雑誌が開いたままバサバサと床に落ちてきました。何十冊余りのその音にはなかなかの迫力があり、一瞬ミリーの肩が驚きに跳ねます。
 こわごわとしゃがみ込んで足元の一冊に手を伸ばすミリーの様子を、バレッドさんは冷たい目で見下ろしました。ですがそれも数秒のことで、すぐ興味を無くしたようにフイッと真正面へ向き直ります。直前までミリーが立っていた空間を、今は誰の姿もない中空を、彼は黙って見つめ続けていました。
 床に手と膝をつき、次第に瞬きすら忘れて、ミリーは雑誌に引き込まれています。
 アルバムを捲るような気持ちでした。
 懐かしいレコードのジャケットイラストも、答えた覚えのある質問も、綴られた思いも、記憶から薄れつつあるささやかな出来事も、そのどれもがミリーの歩んだ軌跡です。
 キラキラとした表情で輝く、過去の自分の姿。目を背けていた思い出たち。
 突きつけられたそれらが、色を失っていたミリーの瞳に虹色の光を灯していきます。
 小さく開いた口から、ぽつりと感情が零れました。
「パリアンさん、答えを……言います」
「お? なになに?」
「見つけたんだ、ワタシの『幸せ』。……ううん、違うな。気付いたんだ、思い出したんだ……。あのときが、どれだけ楽しかったか……」
 バレッドさんの横に並んで立っていたパリアンさんは、その場でミリーの回答を待ちました。バレッドさんもまた、瞳だけを僅かに動かしてミリーの方に向きました。
「ワタシ、歌が好き。だから、歌っているときがワタシの一番の『幸せ』って、思います」
 床についた拳を握って、顔を上げるミリー。がたつく窓の音は止み、吹き込んでくる細い風だけが残っています。
「そう……だから、ワタシは歌えなくなってたんだね……」
 唇と目の端にぐっと力を込めた泣きそうな微笑みが、ガラスにうっすらと反射していました。

 

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63.星と空色(2)

 店舗の販売フロアの奥に、星柄のカーテンで仕切られた応接スペースがあります。中には柔らかいソファが二つ用意されていて、隣の壁には大きなスタンドミラーが立ててありました。木の本棚にはぎっしりとカタログが詰め込まれています。テーブルの上にもいくつか広げてあり、美容院の待合室のようです。

 カーテンを開けた先の空間は、当時からほとんど変わっていませんでした。テーブルの上に並べられたカタログの中身が違ったりしていたけれど、それ以外はミリーの記憶の中のままです。

 中へ足を踏み入れると、スタンドミラーに自分の全身が映り込んでミリーをドキリとさせます。

 思わず通学鞄を強く握って力んだ肩を少しずつ下ろしながら、ミリーは弱々しく息をつきました。

 パリアンさんが、ミリーのプライベートを守るために教えてくれた魔法。

 それが過去に身を助けてくれたことは事実でしたし、彼女の思いやりにも感謝しているけれど、決して好きな魔法ではありません。ミリー曰く、姿や声がすっかり別人に変わってしまって、自分が自分でないようなのが嫌だと。

 まだ胸の動悸が収まらず、ミリーはその場に立ち尽くします。

 儚く優しい雰囲気の、空色の少女。

 動揺と恐れを抱いた目に映ったのは誰の姿だったのでしょうか。

 

 カーテンの隙間を覗いてみると、店内がガランとして人の気配がなくなっており、明るいのにどこか寂しい雰囲気が満ちています。

 ソファに腰かけて待つ内にレコードのBGMがフェードアウトしていき、しばらくして他の物音もしなくなりました。コツコツと足音が近づいてきて、カーテンの仕切りがゆっくり開かれます。パリアンさんがやってきました。

「誰も入ってこないから……もう魔法解いて平気なの」

「ううん、このままお話させてください」

 別人の姿を借りたままでいることをやんわりと注意されますが、それをミリーは首を振って拒否します。パリアンさんは長い睫毛を伏せて俯きました。

「アタシは、そんな使い方するためにその魔法を教えたんじゃないの……」

「わかってます。こんなことしたってクレアは帰ってこない。ワタシの隣にクレアはいない。けど、今日だけ……今だけ」

 消え入りそうな声で訴えるミリー。鞄を乗せた膝の上で両手をギュッと握り締めました。

 向かい側のソファにパリアンさんがゆっくりと腰を下ろします。

「ここ数日、町でもまたミリーの噂聞くようになったの……無理しないでなの。……ホントの理由を話せば、応援してくれるみんなだってきっと今みたいには言えなくなるのに」

「……だとしても、公表はしないです。これからも。それにワタシ、歌いたくないわけじゃないんだ。……ワタシは、ただ……」

「……話せそうだったら、教えてほしいの。何があったの?」

 パリアンさんは真剣な顔をしていました。

 夏休み最後の日に出会った盲目の少女、シズクとの出来事を、ミリーは説明し始めます。語りながら、その目線は時折ちらちらと鏡に映る自分の姿に揺れました。

 シズクはミリーの歌が聞きたいと願い、ミリーはそれに応えようとしていました。「歌えない」と嘆いて逃げ出した自分のことを他の誰よりも責めて、変えようとしていました。それがシズク一人だけの望みではないことを知っていたからです。

 自分はまたステージに立つことを望まれているのだろうと、ミリーは理解していました。それは喜ぶべきこと、自分は恵まれている、とも。

 頭ではそう思っていたけれど、心はそれを受け入れることができず、何度も拒んでしまう。そうして、同じことをぐるぐると繰り返す自分に嫌気が差す。そう話す彼女の顔は苦悩に歪みました。

 もしもこの時、この場に私がいたとしたら、自己嫌悪を告白する青髪の少女を見てもそれが「ミリー」だとはわからなかったことでしょう。そこには、私の知っているミリーの姿はありませんでした。

「ワタシ、あの時、歌いたいって確かに思いました。だけどそれってあの子のためじゃないんです。きっと同情ですらない。こんなの、自分のことばっかりで……わがままだ」

 ミリーの顔が、徐々にパリアンさんの正面から横へと傾いていきます。

 視線はどんどんずれて、吸い寄せられるように。

 そうして鏡に映る空色の少女と目が合ったとき、言葉を紡ごうとする唇は小さく震えて、か細い息を洩らします。

 影が濃くなり、昏く濁っていく虚ろな瞳。

「こんなこと願っちゃいけない。”わたし”が許さない。だってそうしたら、多分、そのまま”わたし”は……」

「それ以上はストップなの、ミリー」

 その目の前に、パリアンさんが腕を伸ばしました。ラメを乗せたネイルの光る指先が鏡とミリーの間に割って入り、瞳はハッと光を取り戻します。

 パリアンさんは間髪入れずに続けました。

「アナタはミリー。ミリーの道を決めるのはミリーなの。クレアちゃんの思いも、クレアちゃんだけが決められるの。それはミリーの決めることじゃない」

 手を伸ばしたまま、もう片方の手をホットパンツのポケットに入れます。とても短い木の枝同然の棒切れを取り出すと、ミリーを指しました。

 ライムグリーンの瞳がチカッと輝いて。

 その瞬間、ミリーにかかっていた魔法は力を失い、瞬く間に彼女本来の容姿へと戻りました。不意に鏡の中に現れた自分の姿に驚いて、ミリーはその大きな丸い目を見開きます。

 張り詰めた顔のパリアンさんにじっと見られ、ミリーは逃げるように目を逸らしました。

 パリアンさんはそっと腕を下ろすと、細い枝の杖を包み込むように両手を重ね合わせます。

「ミリー、今アナタは幸せなの?」

「えっ。し、幸せ……?」

「そ。えっとね……えぇーっと……うぅ、いきなりだからうまくまとまんないの。アタシは難しいことお話するのは苦手なの……ちゃんとできるかな……」

 戸惑いながら聞き返すミリーに、パリアンさんの声は最初の一言こそはっきりしていたけれど、だんだん尻すぼみに小さくなっていきました。指先をいじいじと動かし、言葉を探して僅かに口を閉ざしてから、続けます。

「うまく言えないかもだけど聞いてほしいの。まず……人間の『幸せ』っていうのは人それぞれ全然違くて、その人の中にしか答えがないものだってアタシは思うの。それでね、えっと、アタシが言わなきゃないのは……」

 まるで脈絡のない話題の転換に困惑しつつも、ミリーは大人しく耳を傾けていました。

 パリアンさんはどこかに原稿でもあるかのように、時々口を止めてはふらふらと目線を宙に泳がせます。けれど、喋っているときは真っ直ぐにミリーの瞳を見据えていました。

「ミリーが幸せって思うのはどんなときなの?」

「……パリアンさんは?」

「アタシ? アタシはカレと一緒にいるときに決まってるの! ……って、違う違うっ。今はそんな場合じゃないの!」

 胸を反らして反射的に笑顔で答え、すぐにハッとすると、ブンブンと首を振ります。

「こほん。とにかくね? これ! っていうミリーだけの『幸せ』を一つでいいから見つけてほしいの。そういうのが誰にだって一つはあるはずなの! どうしたらいいのかわからなくなっちゃったときは一旦その悩みを捨てちゃって、その代わりに、どんなときが幸せなのか想像してみるの。そしたら、本当にしたいことがわかってくるの」

「……クレアはもういないのに、そんなの……」

「後ろ向きにならないで、なの」

 沈んだ面持ちでいるミリーに、パリアンさんは前向きな言葉をかけ続けます。

 陽の光の影でしゃがみ込むその手を取るように。日向の中とへ引っ張り上げるように。

「アタシは、もうミリーは幸せを見つけられてるって思ってるの。でもそれはミリーが自分で気付かなきゃいけないことなの」

「うーん……ワタシも難しい話は苦手なんだけどなぁ……」

 ミリーは軽い言い方で苦笑したけれど、それが作り物の明るさであることをパリアンさんは見抜いていました。

 小さく息を吸って立ち上がると、ミリーのすぐ隣へ寄り添うように座り直します。

「またいつでもお話に来ていいの。明日でも、お休みの日でも。アタシはずっとミリーの味方なの。悲しい気持ちも苦しい気持ちもアタシが代わってあげることはできないし、その気持ち全部をわかってあげることもできないけど……一人ぼっちよりは絶対にいいの」

 目を閉じて優しい顔で語るパリアンさんの言葉は、ミリーの心をぎゅっと締め付けました。

 柔らかい金髪に首元をくすぐられながら、少しだけ、鼻をすすります。

 パリアンさんはミリーの方を見ず、薄暗くなってきた窓の外を見上げました。淡い桃色の水彩絵の具が垂れたような、霞んだ夕焼け空がブラインドの隙間から覗いていました。

「真っ暗になる前に今日は帰るの。それで、夜ご飯食べてお風呂入ったら、早く寝ちゃってなの。暗ぁい夜の考え事は、嫌な方にばっかり流されるものなの。だからダメ。早くおやすみなさいするの。いーい?」

 ミリーが囁くように返事をすると、左頬の星に指先で触れながら穏やかな微笑みを浮かべました。

「もし眠れなかったら窓を見て、月か星の光を探すといいの。そうしてると落ち着くんだって。……ずぅっと昔にね、アタシの大好きなお友達が教えてくれたの。星空を見るのが好きな、優しい子だったの……」

 あたたかな夢を見るようにぽつぽつと呟きます。

「あの子はもう帰ってこないけど……大事な思い出がいっぱいあるから、寂しくないの。いつだってアタシの隣にいるって思えるの」

 その「友達」の話をするパリアンさんの声色はしっとりと落ち着いていて、切なげで、これまでに一度も聞いたことのないようなものでした。その響きに、ミリーは不安に似た気持ちを感じます。

 けれど、おずおずと見上げた彼女の表情は嘘偽りのない幸福で満ちていました。

 彼女の瞳が映す世界を知りたいと思い、ミリーは彼女を真似るように、そっと瞼を閉じてみました。

 

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62.星と空色(1)

 鼻歌を歌いながらリズミカルに廊下を歩いていたパリアンさんは、静かでガランとした来客用昇降口の手前で呼び止められて立ち止まりました。
 よく通る、女の子の高い声です。
「パリアンさんっ」
「ぅん? わぁ、ミリーだ! 久しぶりなの~!」
 下駄箱の影からぴょこんと姿を現したのはミリーでした。パリアンさんは抱きつきそうな勢いで駆け寄ります。二人は両手をパチンと合わせて笑顔で向かい合いました。
「また自分でお届けに来たんですね? ずーっとパリアンさんの声聞こえてましたよ。パルティナ先生との喧嘩もバッチリ」
「やーん、恥ずかしいの。でもだってムカつくんだもん! その話はおしまい! なの!」
「あはは、ごめんなさーい」
 気心の知れた様子の二人は、さながら年の離れた姉妹のようでした。彼女とパルティナ先生が口論ばかりしているということも、ミリーは以前から知っていたような話ぶりです。
 パリアンさんは話題を変えて、ここで自分を待っていたのかとミリーに問いました。
「こっち側って生徒は使わないんじゃないの? もしかしてだけど、アタシに何かお話なの?」
「え、えへへ……でもまだ、戻ってからもお仕事ですよね……」
「ミリーは今日暇なの? じゃあパパーッて片付けちゃうから、お店で待っててなの~」
「いいんですか?」
「うんうん!」
 言葉に合わせて二回頷きます。遠慮がちな目を向けて体の前で手を重ねるミリーへ、パリアンさんはお姉さんらしい微笑みで答えました。
「気付いてる? そうやってね、ミリーがちょっぴり弱気でお願いしてくるときって本当に人を頼りたいときなの。だから張り切っちゃうの! アタシは何でもお見通しなの★」
 ぐっと拳を握り、力こぶを作る仕草をします。
 明るく振舞っていたミリーでしたが、パリアンさんの言葉に少しだけ目を見張りました。眉は下向きに下がり、口も小さくすぼんでいきます。
「……ずっと話せなくて、すいませんでした」
「アタシはいいの、事情はマネージャーさんからだいたい聞いたの。無理ないことだと思うの……。頑張りすぎる方がダメなのっ!」
 パリアンさんはミリーと対照的に、眉をピンと張って声を上げました。
 ミリーの瞳を覗き込んでピタリと視線を重ね、はつらつとした笑顔を見せます。ミリーはつられて、へにゃりと口を綻ばせました。
「先に行ってるの。あ、そうだっ、よく一緒に来てるお団子結びの子も来るの?」
 トントンとつま先を鳴らして、来客用のスリッパから厚底サンダルに履き替えます。パリアンさんの身長はより一層すらりと高くなりました。
「え……と、今日はワタシ一人で」
「りょ~かいなの! 『変装』してきても大丈夫だからね、ちゃんと気付くの。待ってるの~!」
 踊るようにひらひらと手を振りながら、パリアンさんは校舎を後にしました。

 

 クラスTシャツの襟元を捲ってタグを見ると、鮮やかな青色で「fairy style」と綴られています。その周りには小さな星が散りばめられていて、パリアンさんの頬のペイントを彷彿とさせました。
 スズライトの商店街にはいくつもの店舗が並んでいます。ブティック「fairy style」はその中でも一際派手で目立つ、鮮やかなイエローとピンクのポップな看板を掲げたお店です。皆はフェアスタという略称で呼んでいます。パリアンさんは、その店主なのでした。
 彼女のブティックでは若い女性向けの衣類を多く取り扱っていますが、それとは別に、ユニフォームの注文・製作も請け負っています。私は気が付かなかったのですが、クラスTシャツを注文する時に学校へ送られたカタログは「fairy style」のものだったのです。
 それは個人でも団体でも、どんな衣類であろうとも注文を引き受けるという、パリアンさんが最も売りにしているサービスでした。店主の彼女は着飾ることが好きで、自分以外の人を着飾らせるのも好きで、服を一から作ることも好きなのです。彼女の趣味を兼ねたこのサービスはその性質上、こだわればこだわる程に値が張ることは避けられなかったけれど、それだけの価値はあるものだと高く評価されていました。
 その評判が、ミリーの所属する事務所の耳にも届いていたのでしょう。二年ほど前、ミリーのアイドルとしての活動が軌道に乗ってきた頃、新曲と共に新しい衣装を仕立てようという話が上がりました。その依頼先が「fairy style」でした。

 

 あの人がいなければ今の自分はいない、そう思える人物の一人だと、後にミリーは語っています。
 以前よりミリーのことをチェックしていたパリアンさんは、その活動に携われるのは願ってもない申し出だと全身で喜びを表しました。
「ミリーちゃんだ~っ! えっ、ホントのホントに、アタシがお洋服作っていいの!?」
「えへへ、よろしくお願いしますっ」
「こちらこそなの! 全力でお手伝いさせていただきます、なの! じゃあ早速、具体的なお話を始めたいの。皆さん座って座って!」
 まだスズライト魔法学校に通い始める前で幼かったミリーは、その場には同席していたけれど、大人たちが交わす話をはっきりと理解していたわけではありません。その内容も、もうあまり覚えていません。ですが、インタビューのように細かく質問を受けたことは記憶に残っているといいます。
「この楽譜だと、ここのところが一番の見せ場なの? サクッとでいいから振り付け見せてくれる? それとどんな風に、どんな気持ちで歌うの? ……うんうん、ありがとなの。それなら、この飾りはターンするとき邪魔になるかも?」
「でもねでもねっ、モチーフとしては曲の表現にピッタリだと思うの。すごくいいと思うの! だからもうちょっと小さめにするか、刺繍や髪飾りにするのはどう?」
「これが生地サンプルなの。スカートをキラキラさせたいんだよね? 人気なのはこっちなんだけど、お値段的にはこっちのがお得なの。ステージライトの下なら同じくらいキラキラに見えるはずなの。いかがなの?」
 打ち合わせは数回にわたって行われました。スケジュールの都合が合うときにはミリーも参加し、その度にどこかしら変化しているデザイン案をチェックしては想像を膨らませていました。
 実物を仕立てる段階に入ってからは、その想像はより楽しいものになりました。ミリーが呼ばれたのは採寸の日だけだったけれど、形作られていく過程を見ているとワクワクして、自主的に何度も見学に行きました。二人が親しくなるのは自然なことでした。
「ミリーはこれから先、もっともっと人気が出るの! 絶対なの! でね、そうなったらきっと普通にお出かけするのが難しくなっちゃうかもだから、アタシからとびっきりの魔法をプレゼントしちゃうの。ただのオシャレにも使えるの~♪」
 ある日そう言って教えてくれたのは、別人の姿へ変身することができる魔法のことでした。
 しかしそれは現代のスズライトでは、悪用される可能性があるという理由で好ましく思われていません。そのため、後ほどミリーの知らないところで、パリアンさんは事務所の人から苦言を呈されていたそうです。
 そんな問題があったりもしたのですけれど、ミリーが彼女に懐いていたこともあり、衣装作りは続けられました。結果として、彼女の仕立てた衣装には誰もが感嘆したのでした。
 それ以来パリアンさんは、ブティックを経営する傍ら、ミリーを手伝うようになっていきました。
 無邪気なパリアンさんとの談笑には、年の差など忘れてしまいます。しかしその一方で、仕事における彼女はミリーを幼い子供だと侮らずに周囲の大人にするのと変わらない態度で対等に接してくれていました。
 だからミリーは、パリアンさんに一際信頼を寄せていました。友人としてしたいことをやっているだけ、そう言って笑う彼女が、どれだけミリーの救いになったことでしょう。

 

 昨年の冬、学業を理由として活動休止を発表したミリー。それ以降も彼女の店には一般客として訪れていたけれど、二人での会話はほとんどしていません。
 ミリーがアイドルとして表に出なくなった理由。歌わなくなった理由。歌えなくなった理由。
 本当の理由を、あの冬に何があったのかを、パリアンさんは知っていました。
 ミリーが進級後も平静を装って「fairy style」へ足を運んでいたのはひとえにパリアンさんに心配をかけないため、元気な姿を見せるためです。しかし、その行動がかえってパリアンさんを心配させていたとは思ってもみませんでした。彼女が事情を聞かされていたと、ミリーは知りませんでした。

 

 肩の高さで外向きに跳ねている空色の髪と、さざめく海のような瞳。しなやかな長い指。
 商店街の路地裏で魔力の光に包まれて「変装」を終えたミリーは鞄を持ったままの制服姿で、営業中の店内に入っていきます。誰も彼女がミリーだとは気付きません。
 パリアンさんの手が空くまでの間、ミリーは新作の秋服を眺めながら時間を潰しました。
 気になる服を見つけて手に取ったけれど、試着室の鏡の前でたじろいで足を止めます。
 試着はせずに来た道を戻り、服を畳み直して棚へ戻していたとき、背後で何かがガチャンと音を立てて床に落ちました。
 振り向くと、少々離れたレジカウンターの向こう側から、パリアンさんがひどく狼狽した顔をして彼女の横顔を凝視しています。
「し、失礼しました……なの」
 パリアンさんがカウンターの下へ身を屈めました。ミリーはそれを横目に見て、肩にかかった髪にそっと触れます。
 ほどなくして、まだうろたえている様子のパリアンさんが足早にやってきました。前髪が少し乱れています。
「……クレアちゃん……」
 改めてその顔を正面からまじまじと見つめ、通学鞄に付けたハート型のチャームをちらりと見下ろした後、信じられないものを見る目をしたまま問いました。
「……アナタ、ミリーなの?」
 口角を上げて無言で頷いたその笑顔は儚く、今にも消えてしまいそうです。折れそうに細い体とどこにも日焼け跡の見当たらない肌が、中空に揺らめく蜃気楼のようでした。
「アタシ、一回しか会わなかったけど……わかるの。覚えてるの。そんな、なんで……その姿……」
 ミリーは答えず、ただ微笑み続けます。
「奥の部屋で、待ってますね」
「う、うん……わかったの……」
 薄い唇から吐息のように零れた声は、店内に流れるポップスに掻き消されてしまいそうでした。

 

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61.跳ね回るライムグリーン(2)

 高音はまだ廊下を突き抜けています。

「ギアー聞いてよ! もうサイアクなのー!」

「どうせまた、君が先に吹っ掛けたんだろうに……」

 私は通学鞄を手にして帰ろうとしているところでしたが、その甲高い嘆き声に足を止めました。

 

 帰りのホームルームの間、パルティナ先生は生徒たちの目を直視せず、いつもよりもずっと早口で喋っていました。そして、背後に絶対零度の風を吹かせた鋼鉄の笑顔で、あらゆる問いを揉み消して早々にいなくなってしまったのでした。

「ねえセンセー、さっきの」

「何か?」

「……さ、さっきの、ええと……段ボール、看板に使うのであのまま置いといてください……」

 そんなやり取りを、一度だけ垣間見ることがありました。

 

 放課後になってパリアンさんの声が再び聞こえてきたのは、そう遠くない場所でした。曲がり角を覗き込んでみると、階段の正面の窓際で、彼女とギアー先生が立ち話をしています。

 私を見つけたパリアンさんはブンブンと手を振って私を呼び、ギアー先生は困った顔で振り返りました。

「ルミナちゃーん!」

 傍まで近寄っていき、ぺこりと軽く頭を下げます。

「えへへー、さっきぶりなの」

「ん……ああ、シャツの受け取りに行ったときか」

「そうそう! なの!」

 疑問符を浮かべたギアー先生へ、ニコニコと繰り返し頷くパリアンさん。

「先生たちとも友達だったんですか?」

「う、うぅーん……友達……ギアーはともかく、パルティナは友達じゃないけど。でもまあ一応、そんなところなの」

「びっくりしちゃいました。あんな先生見たことなかったので」

「パルティナは猫かぶりなのー」

「生徒の前ではやめてやりなよ。彼女にもイメージというものがあるのだから」

「アンタもなかなか言ってると思うの」

「おや」

 そう突っ込みを入れられたギアー先生はとぼけたように肩をすくめ、丸眼鏡のつるを摘まみました。

 ギアー先生によると、二人の先生とパリアンさんは古い友人とのことでした。三人とも学生時代の同窓生だという話です。彼女たちが顔を合わせる度に口喧嘩をするのは昔から全く変わらないことだと、ギアー先生は苦笑いします。

 開いた窓の遠く向こうで、カラスが間の抜けた声で鳴きました。下校する生徒たちの笑い声がささやかにこだましています。

「ところで……ルミナさんは『先生たちとも』と言ったね? 他に誰の話をしたんだ、パリアン? 僕らの友人だと初めから名乗ったのではないんだろう?」

「う。えっとー、マリちゃんだよ? なの」

「マリさん……」

「あっ! そうです! 私、スズライトに住んでた頃のお母さんの話を聞きたいって思ってたんです!」

 私は鞄の持ち手をギュッと握り直して、パリアンさんへ期待の眼差しを向けました。

 一方、何故かパリアンさんは叱られた子供のようにしゅんとして、控えめな上目遣いでギアー先生を見上げています。

 光るレンズの奥で、先生の瞳はじっと静かにパリアンさんを凝視していました。それはパルティナ先生の見せていた氷点下の笑顔と、どこか似通っている気がしました。

 声を上げた私の方を先生はちらりと見て、

「それは、ルミナさんの母親の名前かい?」

「あれっ? なんでギアー知らないの? そんなわけないの。アンタは誰よりも――」

「僕は知らないよ?」

「えー……なんでなの。せっかく――」

「何でも何もないだろう。知らないものは知りません。それじゃあ僕はそろそろ行くから。ルミナさん、あまり長く残りすぎないようにね」

「あっコラ、ちょっと!? 話はまだ終わってないのーっ!」

 声を張り上げられても、先生は「こっちだってまだ仕事中だよ」と足を止めず階段を降りていってしまいました。ぷくっと頬を膨らませ、パリアンさんはむくれます。遮られた言葉の先で何を言おうとしたのかはわからないままでした。

「ギアー先生もお母さんのこと知ってた……?」

「んんー……そのハズだと思ったけど……本人がああ言ってるから違うみたいなの。勘違いだったの」

 そう答えつつ、パリアンさんも首を捻って納得していない様子でした。

 ギアー先生のことも少々気になりましたが、私はそれ以上に母の話が聞きたかったので、パリアンさんに一歩近寄ります。

 けれど、彼女は気まずそうな目で私を見下ろしました。長い金髪を揺らし、ふるふると首を横に振ります。

「さっきはちょっぴり嘘ついちゃった、なの。ホントはアタシ、別にマリちゃんとはお友達でも何でもなくって、ほとんど話したことないの。だからお話できることは全然無いの、ゴメンね」

「えっ、そう……なんですか」

「けど一個だけあるの。教えられること」

 凛とした声でした。

 パリアンさんは左手を頬に添え、しっとりと落ち着いた微笑みで私の目を見つめ、内緒話をするような仕草で顔のすぐ傍まで身を屈めます。

 不意に鼻先をくすぐったのは、新緑の香り。

「あのね、アタシのおねーちゃんもみんなも、ずっとずぅっと、あの子のことが大好きなの」

 窓の外から日光を受けて、瞳のライムグリーンが淡く煌めいていました。

 口元が綻んでいく様は、引き出しの奥に仕舞っていた大切な宝箱をそっと開けるかのようです。

「ルミナちゃんは本当にあの子とそっくり……奇跡みたいなの。ううん、きっと奇跡なの! だからね、アタシは今日とってもハッピーなの!」

「え……?」

「また会ったらお話しよーね、ルミナちゃん! 名残惜しいけど、アタシもそろそろお仕事に戻らなきゃなの~」

「は、はい。えと、ありがとうございました」

 パリアンさんはニッコリと目を細めました。瞼に乗ったアイシャドウの光が星屑のようでした。

 彼女が私の横を通り過ぎて去っていくときに再びふわりと舞った優しい香りは、恐らくパリアンさんが付けていた香水のものだったのでしょう。

 豊かな森の木漏れ日が身を包む、そんな光景を想起させるような香りを彼女は纏っていました。

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